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※下に行けば行くほど過去の観点で書かれております。
現在の観点の方がより正確であり、過去の記事とは大分変わってきており観点が修正されております |
| 統括機能 |
行為していない私とは |
| 現在のパーソナリティーの位置について |
シャンカラの私 |
| 蛹から脱皮して蝶として誕生し飛び立つ |
仏陀と八正道 |
| 或る教えから |
神が行為している、とを実感するのは |
| 想像せよ |
二つとも受け入れる |
| ラーマクリシュナの大明知 |
あるがままを見る為には |
| 現在の私とはどのレベルの私か |
それは真我と呼ばれている |
| 知覚の階梯 |
識別の道は極めて困難だ |
| 信頼 |
現在のパーソナリティーに自由意志はあるのか? |
| 私という根本観念 |
内省と反省 |
| 現在意識が無意識を観ること |
耳を傾ける |
| 果たして自分のものなどあるのか |
私・自我とは人類同じだ |
| 観察から観照へのプロセス |
受容するということ |
| プログラムが反応している |
偽我・自我・観照者とは |
| 私は最初からいなかった |
私が考えているのか、それとも考えがただ起こっているだけか? |
| 偽我と自我は全く別物 |
すべては観念の戯れだ |
| 純粋なるエゴ |
私が苦しむ人だ |
| 自我を受け入れ抱きしめよう |
良くなろうと努力しているものは私ではない |
| 日常生活こそ重要だ |
どの私のことを私と言っているだろうか |
| 朝、布団から目が醒めたのは誰? |
錯覚しているのは人格ではなくて自己だ |
| 知的理解とは誤解だ |
マインドって何? |
| 軽蔑 |
思考とマインドの相違 |
| お彼岸 |
救済ということ |
| 体外離脱 |
自己観察とは起こる事だ、する事ではない |
| バーナデット・ロバーツ |
自我を見る事が出来ることこそが恩寵である |
| 成長 |
記憶の本性 |
| 私は観察者ではないのか |
進歩すること?良くなること? |
| 獄舎を飾り立てることを止めよ |
真我探求を止めよ、神の探求を止めなさい |
| ハートの空間・喜び |
わたしという錯覚 |
| 推論:三つの私、三つの系統の流れ |
完全完璧、問題はないと |
| 正しい思い、正しい行い、八正道 |
肉体精神機構は進化しているその概観図 |
| 行為者はいないと言えるのか |
意識の座に出現している肉体精神機構・DNAプログラムとその記憶(自我)の働き |
| 複数の人格・記憶は継続していない |
瞑想 |
| 共振電磁場 |
一緒に苦しみ悲しみ共に痛むこと |
| 結果 |
雑念 |
| 全託し観照すること |
Beingとbecoming実在と錯覚 |
| 悟りとは |
体系的宇宙観の虚偽(考える私は誰か) |
| 見守る者(観照者)の反映が自我だ |
他の教えのことをレベルが低いとか非難するな |
| 記憶を分離しないで味わうこと |
オープンマインド |
| 玉響(たまゆら)の目について |
正しき思考、正しき行為・八正道 |
| 荒野に呼ぱわる者の声がする |
観察者と観照者の違い |
| 無限遠点 |
熟睡の、夢見の、日中の意識とは |
| マインドに意識の焦点をあててはいけない |
私もどきとは同一化してはいけない |
| 絶対安心 |
自我の終焉を願っている私とは誰か |
| 霊・魂・体 |
思考は悲しみだ |
| 思考も思考する人も行為も行為する人もただ起きている |
脳を経由しているもの、経由していないもの |
| 観察者・観照者・ただひとつなるわたし |
私とは結果である |
| 観念の崩壊 |
自己関心と自己忘却 |
| 全受容 |
進歩し、進化し、開悟する者とは私か |
| 自己解体のプロセスとは何か |
選択することは出来るのか |
| あるがままをあるがままに見よう |
個と全体との区別はあるのか |
| マトリックスの動き |
スワミ・スリ・ユクステワの解説図への概観図 |
| 真我という想念以外の想念を抱くな |
自由を求めて |
| 善は善だけを見ている |
プログラムとしての自我 |
| 信じることの大切さ |
スワミ・スリ・ユクステワの「基本的概念」の解説図紹介 |
| 色即是空 |
鍵は私の中にある |
| 凝視している主体がないとき凝視がある |
自己観察のためには |
| 自由への道 |
無為についての考察(無為とは救済である) |
| 瞑想では松果体に集中すべきか |
月と鏡の関係想像図 |
| 魂(第一想念)と松果体との関連想像図 |
何故、真我実現しようとするのか |
| 不死鳥(フェニックス)として蘇れ |
人類は今まで一度も神を求めたことはない |
| 時間-それは嘘 |
身体感覚の消失 |
| 利他という方向性 |
転生しているのは私だろうか |
| 二元の私と非二元の私 |
魂の弁証法 |
| 私は未だ誕生していない |
私の名前はマトリックス |
| 主体には客体は存在しない |
行為しているものは誰か |
| 自我と超自我 |
恩寵とは自らの限界に気がつくこと |
| 時間は敵 |
拡大(遠心・浸透)の道と凝集(求心)の道 |
| ただ一つであるもの |
転生するもの、しないもの(波動領域を超越して)解説図付き |
| 気づきは気づきを意識していない |
果たして思考はやってきているのか、私が思考しているのか |
| 霊的野心を抱いているのは誰か |
正しい錯覚 |
| 不安に「不安」というレッテルを付けるな |
脳に使用されているから脳を使用するへ |
| 動かず・動けず・動こうとせず |
ラマナ・マハリシの至高の言葉 |
| 「何も求めず・為さず・成ろうとせず」も、ただ起こる |
求めるものは遠ざかる |
| 五感は私のものではない |
時間と空間はマトリックスではないのか |
| 似て非なるもの |
見ることが出来る「目」は開いているのか |
| 目を見ることが出来るのか |
マトリックスをマトリックスと見ることが解放をもたらす |
| 私は移動していない |
魂という語彙について |
| 凄さを再認識(ワンネスについて) |
自分を限定されている、と考えることを止めよ |
| 波は海が在るから有る(海が波を支えている) |
上からの道(拡大)と上への道 |
| 自己観察の段階的考察(一求道者の個人的試案) |
内部は私ではない |
| 意識の存在的考察(一求道者の個人的試安) |
虚偽を虚偽と見ることの中に真理はある |
| 努力をしているものは誰か |
真我が覚醒してから自我(エゴ)は終焉することが可能になる |
| 波動との不一致 |
魂の境位・意識・波動のレベル状態は結果である |
| 誰が誕生したのか |
私たちは世界を苦しみから救うべきではないでしょうか |
| 聖なる御方の出現 |
マトリックスとは |
| 開花のプロセス |
私ではないもの 第二弾 |
| 愛は神である、愛が神である |
自我(エゴ)の根源に至れば(ラマナ・マハリシより抜粋) |
| 「起きる」と「起こす」 |
開花し大地に戻ることは必ず起こる |
| 「私は誰か」と尋ねているのは誰か |
真我という蓮の花は泥の中から開花する |
| 真の神聖なる地とは |
「信心銘」(禅宗の三祖、僧璨鑑智禅師) |
| 親が子に語る真我のワークとは |
あるがままで在ろう、何処にも行かず、何にも成らず |
| 偽見とは |
マインドを超えて行くにはマインドを使ってマインドを知るのが最善の準備だ (ワードの方はこちら) |
| 私ではないもの |
死者に死者を葬らせよ |
| 沈黙の言葉(ラマナ・マハリシから) |
叱責・教師からの恩寵 |
| エゴの消滅を願っているのはエゴだ |
観察者なしで見ること |
| マインドと同一化しないということ |
マインドをマインドと見ることよってマインドは沈黙する |
| 何処にも行かない・何にも成らない・ただ在る |
闘わぬ愛の聖者 |
| 何も起きてはいない |
「正見」と二元分離で「見ていること」とは全く違うことだ |
| 自己留意について |
あるがままをあるがままに見ることが真理である |
| 私の会社の親しい友人へ |
良くなろう、自分を変えようとすることは良きこと・愛の否定だ※ |
| 我見・他見・離見の見・非見の見について |
真我覚醒と真我実現の相違について |
| 花は美しい、私は花だ |
マインドという根本無明について |
| 「在る」ただ「在る」 |
頭脳の変換と手術は内なる「気づき」によってのみ行われる |
| 死の賛歌を歌おう、愛の賛歌を歌うために |
既知なるものの中にこそ未知なるものはある |
| 頭脳の変換・手術はどのようにしておこなわれるのか |
頭脳の変換が悟りかーそれは真我からやってくる |
| 既知なるものは未知なるものになることは出来ない |
知識を求めることは自我(エゴ)の働きだ |
| 知覚される対象としての神とは神ではない |
第1想念を拒絶しよう、ただただ聴こう、ただただ在ろう |
| 自己責任を果たそうではないか |
虚偽を虚偽と見ることの中にこそ、真我は訪れる |
| 火急の緊急の一大事とは |
人類は神を求めたことがあるのか |
| 真の私と私でないものを同一視することを止めよう |
世界が現れるのは身体を自分と錯覚しているからだ |
| 第一想念とは※ |
意識の座とはなにか (観念想像図) |
| 非二元性への旅立ち |
世界を対象と見るときそれはマインドが意識を覆っているのだ |
| 人見て法を説け |
行為は外部からやってくる、それは起きる、だから「在りなさい」 |
| 自力門と他力門は同じ真我への道だ |
五感の拡張・拡大について |
| 真我は何処に宿っているか |
私ではないものとは何か・偽我とは何か |
| 「私は悟った」は自己矛盾だ、偽我は真我ではない |
私は非対象であり、対象ではない、純粋主体だ |
| 夢の中で「夢から醒めた夢」を見ている |
宇宙のエルダーブラザー達は待っている |
| 内側が変われば外側は好転する |
眼の覆いが取れるとき(マインドにきづいたときが「意識」であり、意識の全体性を見ることが「気づき」だ) |
| 盲人とは神以外に何かが見える人 |
転生するもの、しないもの(予想概観図) |
| もし貴方が自分の霊的指導者だったら |
やってくる自由意志と自己の行為に自己同一化するな |
| 個人の人格とハイヤーセルフ(真我ではない)関連想像図 |
マインド、意識そして「気づき」この三つの意識状態 |
| 自我とは何か ◆その自我の関連想像図 |
否定的接近は真我探求のスタート地点へと導く※ |
| 気づきがあればこそ、マインドは有ることができる※ |
聖なる学びはビジネスが絡んではいけない※ |
| 私ではないものに気づこう※ |
奇蹟を顕しても人々を虜にしない※ |
| 歴史教育について※ |
新しい葡萄酒は新しい革袋に |
| 反応は条件付けられている |
思考者は自我、 行為者・出来事は根源・源泉、 観客は観照者 |
| 神の御名は“わたし” |
気づきが気づくと言うこと |
| 主体は客体である |
既に悟っている、悟ろうとすることはマインドの働きだ・輪廻は夢だ、虚偽だ |
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親が子に語る人生を生きるとは |
| 物念は残留思念とは違うのか |
人格・ワサナを抱きしめよう |
| 分離して見ていることは邪悪だ |
観照者は真我と意識を繋ぐもの |
| 盲人の手引き |
マインドは肉体の中にあるのか |
| 静寂な鏡とは |
私達は本当に求めているのか |
| 自らが自らの光たれ |
私は在るという感覚に焦点を合わせよう |
| 不活性酸素が病気の元か |
直感力(言語によらない知覚・理解コミュニケーションの段階) |
| 体験・知覚・認識に私は関与していない |
わたしの心に(内と外に)起こることは全て決まっていること か |
| 受胎と誕生のシステム、アートマンとブラフマン |
実は何も起こっていない、全ては起こっている自由意志は存在しない |
| 三段階の私 エレブナの次元解説図 |
ビジネスは愛ではない |
| それはそれで良いのではないか 焦ることはない |
輪廻は腐敗だ、進化は退化だ |
| 親が子に語るマインドとは何でしょう |
真我の特徴(バーナデット・ロバーツの体験から) |
| 鏡を割れ |
肉体のことは肉体に任せよう |
| 私達を乞食にさせてはならない |
脳を媒体にして、私と言う個人・人格の観念はマインドによって作られた、それは私ではない |
| 真の神の探求とは |
正しい観念は有効だ |
| マインド・意識・気づきの段階 |
100の私でないもの |
| マインドの特徴 |
気づきは必ず愛を伴う |
| 自我の終焉は真我の覚醒の後に訪れる |
生きるためには死ななければならない |
| 自分を認識の対象に見るとき、自分に気づいていない |
外部は内部であり、内部は外部からやってきたものだ 概観予想図 |
| 体外離脱 |
エゴを愛す |
| 言葉は不適切な伝達方法だ |
親から子に語る瞑想とは |
| クリシュナムルティーについて |
金銭の授受 |
| 意識の重層性 |
観察することの力について(見ること・気づきの及ぼすちから) |
| 気づきの段階 |
良くなることは良きことの否定である |
| 第3の目で |
グルについて |
| 家族関係について(我と汝、汝の出現) |
富める者は |
| 悟りエゴ |
自己想起とは肯定的接近ではない、私ではないものを私ではないと見ることだ、否定的接近だ |
| 悟りにお金は必要か |
表現のオリジナリティーについて(それぞれの覚者の独自の表現する方法や言葉の違いの奥の共通項をみる) |
| 存在・意識のレベル(戻ることのない私の実存レベル・周波数を上げること) |
一人でも多くの人に真実を伝えることは可能か(言語・想念・情報・知識の伝達の限界) |
| 何もしない、何も出来ない |
自分のものなど何もない |
| 私達を乞食にしてはならない |
神を外に求めてはならない |
| ワサナとは |
闇の中にこそ光はある |
| 何故、転生する直前の記憶がないのか |
何故、霊界では進歩しないのか(何故分離してみているのか・肉体の錬金術的創造作用) |
| 観照者とは |
分離は幻想である |
恩寵の為の前提条件(恩寵は内部からくるという、その為に何をすべきか)
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内界は外部からやってきたものだ(外界は内部の投影だ) |
肉体と同一視してしまっている(玉響は真我の乗り物だ)
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見もの、見られるもの、見ることは同一の過程である |
| 恐怖から目を逸らすな(蓮の花は泥沼から咲く) |
虚偽を虚偽と見ること、虚偽の中に真理を見ること、真理を真理と見ること
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| 個人とは |
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| 行為はマインドと肉体に起こる |
恐怖は自己から逃避することから生じるか |
| 観照者の発見はグルの恩寵による(観照者が真我へと続く) |
「わたしは誰か」は観照者からの炎だ |
| 父と子と聖霊「三位一体」について |
真我は待っている(真我を真剣に愛そう) |
死ななければ生きることは出来ない
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愛の火が燃え広がるとき、夜明けが来る |
| 車ごと瞬間移動で透明化 |
私は私ではない |
| 虚偽を虚偽と見たとき、それに真理が顕現する |
気づいているものが居る限り、それは偽物だ |
| 愛は行うものではない「存在・観照者」の状態だ |
グルや神や人間にレッテルを貼るのを止めよう |
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