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ただ一つであるもの



ただ一つではないものとは何だろうか
(「ただ一つであるもの」はただ一つであるものではないところの、この「私マインド」では想像することも、推測することも出来ない。想像すること、推測することは全てマインドの領域内にある。ということであるので私マインドは否定的に思考しなければならない)

その「ただ一つであるものではない意識」は「ただ一つであるもの」から生じており、「ただ一つであるもの」を分離しているのだと捉える意識(見るものと見られるものとの分離意識)・マインドであるとおもわれる。

即ちこれが意識していることを意識している意識だと思う。

「ただ一つであるもの」はマインド意識を超えており、それは分割し分離されないが
このマインド意識とは「ただ一つであるもの」を分割し、分離しているものと錯覚した意識、即ち「分離している意識」であり根本の無知・無明であると思われる。

ではその分割し、分離するものとは何であろうか

それは私とあなた、私とそれとを別々だと錯覚するマインドだ
この分離していると見えている私や世界や宇宙を頭脳内に投影している意識・マインドだ

錯覚こそが分離と分割を引き起こしているのだ

では錯覚とは何か、幻想とは何か

自と他を別々だと分離の錯覚を起こさせて、時間があると思っているものとは何か、今に参入出来ないものとは何か

それこそが主体と客体の分離認識だ、即ち私だ。私があると思っている私だ。(私は存在していないと云われているのに)

何故なら、客体から分離された主体という感覚が有るから、対象である見られるものが見ている主体とは別にあるという錯覚が起こり、それに伴って求道者に見られる「錯覚から醒めよう」という錯覚が生じるわけである。

覚醒しようとか、真我と一つになろうとすること、神に至ろうとすること自体が、この私は「ただ一つであるもの」ではないという錯覚・仮定から出発している。と云われている。

その切なる神への願い自体が無明マインドの思いである。

その神との合一を願って瞑想を努力しているものはマインドであり、間違った自己認識(私は悟っていない、私は空ではない実存だと思っているものはマインドが思っている私であるのに、そのマインドの私を間違って、魂の私が私と信じているということ)を繰り返ししている。

この肉体の知覚を感じている私とは魂の私では無く、知覚を自己と錯覚したマインドである記憶が転生を続けてそのように思っているだけだ、今現在の久保栄治という人格はマインドが久保栄治という名前と同一化して転生を続けている記憶の塊なのだ、それは魂の私では無い、単なる記憶の塊に過ぎない。

結局はこの嘘が起こるのは知覚が閉ざされているからであり、知覚が肉体や幽体や霊体という「私と偽るマインド」の知覚に限定され、魂の知覚、「ただ一つであるもの」の知覚が閉ざされているためである。

「ただ一つであるもの」の知覚(世界は私であり、宇宙は私だ)があるなら、神に至ろうとは思わないであろう、既に私は「ただ一つであるもの」であるからである

最大の錯覚が身体の知覚に縛られてその情報を魂が受け取り、間違った自己認識をして、その結果、神に至ろうとすることであり、真我を実現しようとしていることである。既に「ただ一つであるもの」しかないのにである。

では翻って、その神又は真我又は「ただ一つであるもの」とは何か

それは実際の話、具体的には「私が存在していなかったこと」の自覚状態ではないだろうか。(道元禅師の自己を忘れ果てることと同じである)

「私とは存在していなかった、単なる概念にすぎなかった」が「ただ一つであるもの」の自覚状態である

至道無難禅師のいわれる「死人となりて、成り果てて、するわざ(行うこと)ぞ良き」こそ実体感であると思われる。


主体と客体、見るものと見られるものの分離が存在していないことが「ただ一つであるもの」の状態であり

この状態を「自覚している意識」がないことが「ただ一つであるもの」の状態であり
(この状態を自覚している意識とは輪廻を繰り返している魂という、真我と現象界との接点であり、真我の中間的存在の意識であると思っている)

これを「気づきは気づきを意識していない」と端的に言われているのだと推測している。


さて「ただ一つであるもの」とは二元性の観点から考えると

それはクリシュナムルティーの云う「見るものと見られるもの」という主体と客体が消滅した状態でもある

それでは、「ただ一つであるもの」即ち「見るものは見られるものである」の主客が統合し、主客の分離がなく、主客の脱落した状態とは

至るのでもなく、なるのでもなく、自己改善でもなく、到達でもなく、将来でもないのなら一体何処にあるのだろうか


時間と云う「今を分割するもの」を超え、その虚偽なる時間が生み出した過去現在未来を超え
分離の空間という虚偽を超え
自と他の人格や、「自我(エゴ)としての私」や魂の区別を超え
この時間の忠実なる思考や、想念、観念、感情、記憶を超え
思考の別名である、理解すること、知ること、知識、目的、理想、理念を超え
錯覚そのものであるマインドが時間の中に引き起こす体験や経験やそれらを支える、意識していることを意識している意識である「分割する意識・マインド」を超えて

「ただ一つであるもの」で在るものであるにはどうすればいいのか

ラマナ・マハリシの弟子であるプンジャジの、そしてプンジャジの弟子であるガンガジはそこを適切に表現している

その
「ただ一つであるもの」は、あるがままであるこの実際の悲しみと不安と苦痛と苦しみと怒りと恐怖の中にある

彼女はそれをポケットの中のダイヤモンドと素晴らしい表現をした

「ただ一つであるもの」である無限とか、空とか、神とか、宇宙意識とか、気づきとか、呼ばれているものは、この私のポケットの中にあったのだ

この私の憎悪の中に、優越感と劣等感、葛藤イライラ、私は特別と思う増上慢のなかにあったのだ

人を見下したり、人を利用したりする、思いやりのない冷たい心の中にあったのだ

計算高く、何かに成ろう、何かに至ろうとする、この常に自分の事を意識しているこの「自我(エゴ)」のなかにそれがあったのだ


なのに、それをどこか別の場所にあると思って探していたのだ

それを探し探して導師をあらゆる場所に求め遍歴したり、書物を漁り、神に祈り、瞑想してきたのだ「ただ一つであるもの」に至ろうとして・・・・

彼女は云う、その「ただ一つであるもの」というダイヤモンドは、一番身近なこの苦悩の中に、恐怖の中にあったのですと

私たちはそれを避け続け、それから逃れること、解放されることだけを求めてきた。何回のも転生を繰り返して

しかし実はそれから逃れようとし、それから解脱しようとすることこそがそれに囚われることであったのだ

だからこそこの態度を180度方向転換して

その苦悩を、その恐怖を、その不安を、この自我を、優しく愛情を持って接し、その苦悩と恐怖の中に深く入っていくとき、その苦悩とその恐怖とその不安こそが実は私自身であったことが判明する

これは素晴らしいことだ!

その時「見るものは見られるもの」となり、そこには見られるものも見るものもない「ただ一つであるもの」がそっと姿を現してるとガンガジを始め覚者かたは揃って云われております


その時最大の奇跡が起こります。ただ一つであるものしかないのです。

その苦悩が、その恐怖が、その不安がそのまま「ただ一つであるもの」へと変貌し、ダイヤモンドが始めから此処にあったことが明らかになると言われます(久保栄治はまだそうではありませんが)

神とか「気づき意識」とか、「宇宙意識」とか、全体とか、「ただ一つであるもの」とかいわれているダイヤモンドとはこの苦悩であり、この恐怖であり、この不安であったわけです。

ただ私たちがその「ただ一つであるもの」を外にあるものだと信じて外部に求め、自己改善しようとして努力を重ね、自分以外の神に、知識に、霊的存在に至ろう、なろうとして、求めてたので出会うことがなかったのです。

それは始めから離れることなく、ここにあったのですが、私たちはそれから超越しようとして、目的や目標を持ち、到達しようとして「神・至高なるもの」という私が作った概念に目を向けていたので見つけられなかったのです。

私たちはあるがままから常に目を背け、あるがままを超越し、超克し、改善することに執心し、神(という概念)に至ろうと努力し、瞑想し、生きてきました。それは間違った方向に進んでいたのではないでしょうか。

神といわれる「ただ一つであるもの」は私の中にあったのです。恐怖の中にあったのです。

これこそ探し求めていた「私が存在していなかった」状態であり、名付けられることもなく、知られることもない(知識とか、理解とか、知るという二元状態を超越している)「絶対存在」「I
AM THAT 」(私は神という言葉はこの地球で汚され、欲望の満足を満たすことで人類を支配する宇宙の支配者と同一視されているのでこの言葉を使いたくありません)です。

クリシュナムルティーは言います

あるがままを、「あるがまま」という状態で見なさいと、

そしてその「あるがまま」を抱きしめ、それの中へ静かに深く入っていき、それは実は私自身であった時、

見るものと見られるものは分離することなく、「見るものは見られるものである」の奇跡が起こると言われております、「見るものも見られるものも脱落する」と云われております。

その時「ただ一つであるもの」は真の超越的な絶対の存在である私自身であり、時間と空間を超えてあらゆる時にあらゆる場所に宇宙の全てに遍在している、名付けることの出来ない無限そのものであることが分かるでしょうと
覚者達は言われております

そしてそこにはそれに気づいている意識は存在していないと云われております。