眼の覆いが取れるとき
この真の私の眼には覆いがかかっている
しかも、いつも私達の目は外側に向いていて
眼は眼自体を見れない
また見ようとも努力していない
眼の覆いは二重三重に厳重だ
一番に眼の近くには最も濃い色眼鏡で「私」と書いてある色眼鏡を
架けている
この色眼鏡は見る物全てを対象と捉える、
分離という素材で
見る対象とそして見ている自分を生み出す構造になっている色眼鏡だ
だから
この色眼鏡を架けている以上は、
必然的に見ている自分(観察者)と
見られている対象(観察されるもの)という
分離・二元性が発生する仕組みだ
これを二元性の色眼鏡といい、
その素材はマインドというものであり、
そのさらなる本質は記憶で出来ている
この眼鏡のさらに外側には二重の厚い雲に覆われている色眼鏡がある
その雲はよく見ると設計図のようであり、差し込む光は全ては此処でコントロールされてしまっている
その設計図は生まれてくる前に書き込まれたもので
今回の人生での自分に起こる出来事がびっしりと書き込まれた
精密なパソコンの基板のようだ
もう一つの雲はDNAと遺伝子によってコントロールされる頭脳だ、
この頭脳は今の人類は5%しか機能しておらず、遺伝子のDNAの12本の内、2本しか動いていないと云うほど完全にコントロールされている
そうして、この色眼鏡をさらにすっぽりと覆っているのが私たちの身体を生かしている「エーテルダブル」というエネルギー体だ
この中を外側からやってきているものが常時流れているという
そのエーテルダブルという身体の中を流れているのが
思考だ
感情だ
欲望だ
意志だ
出来事だ
行為だ
そして
更に良く見ると、
そこの流れているものの中には過去からの自分に蓄積した
心的な傾向・ワサナもある
だから
この真の私の眼は色眼鏡を付けていて、
この今の現状では全く自分を見ていない
自分に起こっていると錯覚しているが
その一番目にある色眼鏡が分離と二元性を引き起こし
自分の知覚だ
自分の体験だ
自分の欲望だ
自分の願望だ
自分の感覚だ
自分の認識だ
自分の感情だ
自分の意志だ
自分の判断だ
自分の選択だ
自分の行為だ
自分の想念だ
自分の思考だ
自分の出来事だ
とそう錯覚する
しかし
全ては自分とは全く関係がない
それは私の外部だ
それはDNAと遺伝子という頭脳のプログラムにより、条件付けられ
そして、更にそして設計図とマインドの二元性によって条件付けられた結果
生じた錯覚である
実際は自分の内部だと
そう思えるだけで、
自分ではそう思っているだけで
これらは
この二元性と云う色眼鏡に映ったものであり
真の私ではない
見る主体は客体であり、見るものは見られるものである、
とそのように言われています
外部の世界は、マインドである内部が投影している錯覚だと
そのように言われております
逆に言えばそれらは
今の二重、三重に懸かっている色眼鏡で、
それを眼に架けたままで自分以外を見ている限り
真の自己発見は出来ない
真の自分に出会えることは出来ない
真の私に会うために、まずはじめにすること
それは、この色眼鏡を架けていることに気がつくこと
そして、自分の中に
自分の眼は自分ではない外部だけを見ているのだということ
私の内面だと思っていたことは全て自分の内面ではなく
マインドによって条件付けられた外部であることに気がつくこと
虚偽を虚偽と見ることのなかに徐々に真理が生まれてくる
自分の内部だと、今まで思っていたこととは
自分の知覚、体験、欲望、願望、感覚、認識、感情、意志、判断、選択、
行為、想念、思考、出来事などだが
それらは
マインドによって、自分の、と錯覚されていたもので、
自分の内部であるかのように思えていたが
それは真の私の外部である
私の内部ではない
真の私の眼が外を向いていたので、そう錯覚したのだ
そのように言われている
だから
眼を眼自体に向けよう
眼の方向を、180度逆転チェンジして真の自分の方に向けよう
それは未知なるものでもある
しかし
眼を真の自分自身に向けたとき
初めて私は自分の内部が何であるかを知ることになるだろう
本当の私の内部とは何だろうか
ここから先は私には書けない
なぜなら私は真の私に出会っていないからだ
しかし先日、地元の80歳の友人がその出会いを体験した
その体験を私は間接的に聞いた
それは、圧倒的な確信を持って、この認識されている外部世界が夢にしか過ぎないこと
内部は完全なる静寂を伴った愛であり、完璧なる全体である
それを気づいている私は個別性ではなく、全体性そのものであり
気づきそのものが智慧と命と愛に溢れた「真の私」「I AM」であり神そのものであるということ
そしてそこには個人や個別性の自分という二元性の感覚は微塵も存在していない至福の状態であることを
その80歳のお爺さんはかいま、見たそうです
そのお爺さんはそもそも悟りなど求めるようなエゴイストではなく
自分の財産を子供ではなく、近所の方々に惜しみなく分け与え
緊急で救急車で病院に運び込まれたときでも、病院内の患者の為に健康を祈るような方でしたから
その覚醒がやってきたのも当然と言えば当然かもしれません
この点を上江洲義秀先生にお尋ねしたところ
「彼は良い明想をしています」、とのことであった
上江洲義秀先生は
私たちの真我のなかには
この世界、この地球のみならず
宇宙全体がひとつの全体として在る、生きていると言われます
いずれにしても
この眼鏡を外すためには
眼をまず始めに180度向きを変えて
自分の方にかえること
そして
真の私に標準を合わすこと
そして当然
色眼鏡である物を色眼鏡としてみること
開眼は
内側から、真の私からやってくると云われています
その私ではない外部を外部として見ることの中に
祝福と恩寵がやってくるものとおもいます
真我から
真の私から