盲人とは神以外に何かが見えること
上江洲義秀先生は言う
「めくらとは神以外に何かが見えるひと」だと
本当は神しかないのに、神・絶対以外のものが見えている状態、
これはめくらであり盲人なのだと、錯覚だと
本当は神しかないのに、自分と他人の分離を見ている状態
これはめくらだと、錯覚だと
本当は神しかないのに、輪廻転生している自分や輪廻しない個人が有ると思っている状態はめくらだと、錯覚だと
本当は神しかないのに、そして全ては完全で、完璧で、すべてが愛なのに、
見ている主体と見られている客体の区別/二元性、分離性が有ると思い込み、
完全ではないものや、完全なる愛ではない事が見えている状態、
これはめくらだと、錯覚だと
本当は神しかないのに、即ち今しかないのに、過去があるとおもったり未来などの
時間が有ると思っていることは
めくらだと、錯覚だと
本当は神しかないのに、即ち空間は全て神そのものであり、神でない空間などないのに、
神でない空間や宇宙があると思っていること自体がめくらだと、錯覚だと
本当は神しかないのに、自分の中にマインドの中身である思考や感情や欲望や想念が有ると思っていることはめくらだと、錯覚だと
本当は神しかないのに、個人意識や集合意識や、そのような意識、存在が、そして作られた個別的人間やこの現象界の〇〇や〇〇や敵があると思うこと、そしてこの現象界の二元性の認識それ自体や、マインドの知覚対象やその認識主体が有ると思っていることはめくらだと、錯覚だと
この言葉は究極の真実からであると思われる、
もの凄いレベルだ
この上江洲義秀先生の意識状態は、私達とはまったく次元と段階を異にしている
上江洲義秀先生のこの言葉は
あちら側から、彼岸から、実相界から、
この現象界自体を存続させている基底そのものから直接に語りかけている
この基底という「現象界の全てを支え、生み出しているもの」からだとおもわれる
彼のこの意識は、そこからであり、絶対からのものである
「それ」であり、すべてであるものからであり
その宇宙意識そのものから出ている言葉だ
それが
「盲人とは神以外に何かが見える人」、
これこそがそれだ
この同じ状態を
彼岸の次元にたってのあちら側からの言葉であっても、違う表現で
こちら側の現象界のマインドという分離性の言葉で説明すると
ニサルガダッタ・マハラジの「外部は内部であり、内部は外部である」となる
これは
私たちの認識し、知覚しているこの世界、宇宙は、
そしてぐっと身近では
この家族は、この肉体は、この立ち向かっている隣人は、会社の同僚は
「自分の内部を映している鏡」であるということであり、
もっと分かり易い言葉で言うと
「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を映してやみん」となる
夫とは、
妻とは、
子供とは、
親とは、
実は自分を映しているに過ぎない、
自我という実存を投影しているに過ぎない
私たちは本当は分離していない、ひとつなのだ、
それなのに別々の存在、分離していると思わされているのだ、マインドによってだ、
だから本当は「外部は内部である」のだ
隣の隣人は、
嫌な上司は、
陰口を叩く同僚は、
自慢する会社の幹部は、
それら全ての私の前に現れる他人の姿は、
実は自分の鏡に映っている自分自身を見ているのであり、
実はその投射された対象はこの自我というマインドが作り出している個人的鏡像に過ぎない、
本当は外部は自分の内面を映している鏡なのだ、
自分を映している鏡なのに、それを外部に、自分以外に、
対象として存在していると錯覚している
この認識システムこそマインドのカラクリであると思う
三界という現象界のシステムだとおもう
だから、その映し出されている私の内部とは、
実はそれはマインドであって、
自分であるようにマインドに思わされているだけで、
それは、本当の自分(真我)ではない、真の主体(観照者)ではない、
永遠のパーソナリティーではない、
これはマインドのマトリックスという実は大変なカラクリである
私に知覚され、認識され、体験される内部は本当の内部ではなく、
内部と思わされているもの
即ちマインドにすぎない
その個人の自我というマインドを詳しく云えば
永遠のパーソナリティーが
現象界での経験を重ね最終的に真我に戻ることを目的にして生み出した
一時的人格、個人であり、
又、それは肉体と自己同一化した想念凝縮体エレメンタルであり
その一時的人格の成果が、輪廻転生の成果としてコーザル体という記録ボディーに収納されている
そして、その継承され、更新される自我そのもの
それは
サイキック素材と
メンタル素材で出来た
自我という想念体
これが
現象界で経験を重ねた成果を携え、永遠のパーソナリティーと結婚するのだ、同化するのだ
又は磔に至るのだ
だから
永遠のパーソナリティーによって、この現象界という分離された世界に送り出されたもの
疑似主体として、創り出された個人という想念エレメンタルの人格は本当は存在しない、
この内部には、内面には、マインドという、素材によって
生み出された物で充満している
しかしそれは、実は外部である、ものである
それは真の私のものではない
それは真我にとっては外部であり、マインドであり、そのマインドが意識にやってくるのだ
それが思考、感情、欲望、行為、出来事であり、それが記憶を作り出している、
その意識にやってきているものは自我によって認識されるものであるところの、
自我の認識対象だけではなく
自我という認識の主体自体
知覚する知覚主体も
意識によって確認される、意識される
それが、それこそ
条件付けられた頭脳と設計図という条件付けそのものの結果
それらの条件付けで作り出されたものが個人という主体、想念凝縮体
それが
継承されている輪廻転生している自我そのものというサイキック体とメンタル体の想念凝縮体、
それは
分離性というマインド素材により身体や肉体と同一化されて創り出され、
行為と意志と人生の主体と思い込まされているのが、
この実体こそ「偽の私」だとおもう
それを見ている主体、
これこそ意識そのものであり
永遠のパーソナリティーではないか
ということで、ニサルガダッタ・マハラジがいう
「内部は外部である」とは即ち内面は全てマインドであり、
真の私、真我ではないとすると
本当の私とは何か
真の内部とは何か
真の私とは誰か
それを上江洲義秀先生はあちら側(彼岸)から言われたのだ
「めくらとは神以外に何かが見えること」だと
であるので、私とは何であるのか
それとは
輪廻転生している自我ではない
その想念凝縮体ではない
自我ではない
従って、それは
知識ではない、それは知識や情報ではない、
言葉を介在させない智慧が、沈黙という智慧が必要だ
概念では無理だ
思考はそれを伝えられない、思考でもって思考の本質である、二元性を、分離性を看破し、
その思考自体を見ている意識に、
その思考を見ている意識自体に気づいている
「気づき」という次元が顕現していることがあらねばならない
この説明はニサルガダッタ・マハラジが何時も言っていることだが
マインドという主体と客体の分離性を
「ただ見ている」、「見る」、「注意する」「気づく」ことの基盤の意識こそが
マインドの意識レベルでは意識されないところの
意識という「永遠のパーソナリティー」もしくは「観照者」の次元の意識であり、
そしてこのより高次の次元の意識の全体が覚醒している状態が
「気づき」という全体性、非二元性、非分離性である神そのもの、絶対の次元だといわれている
この状態の意識次元を「気づき」という、観照者である真我の意識次元だという、
これは別名宇宙意識、又は非二元性、等ともいわれており、
その中身は愛それ自体、智慧それ自体、全体それ自体であり、
普遍にして、遍在であり、内にも外にもあまねく存在する絶対であり
過去現在未来をこえた今そのものであり、
あらゆるものに浸透しそれ自体であり、
空間それそのものであるという
又これは
このマインド感情では伝えられない、高次の「愛」という感情であるともいう
この状態を
上江洲義秀先生は私達には想像も推測もできない
歓喜と法悦そして、
愛そのものの中から、
その「本当の内部」であり描写できない
真の私の状態を否定的に
「めくらとは神以外に何かが見えることだ」と
オリジナルな否定的接近の言葉で表現された
これはまさしくニサルガダッタ・マハラジの
「内部は外部である」と全く同じ事を
違う言葉で言われたのだ
私達は今、何を見ているのだろうか
何が見えているのだろうか
私達はいま、何を感じているのだろうか
私達の見ていることの全てが神でないのなら
内側にも外側にもその区別無く、全てが愛ではないのなら
感じている全てが喜びで、平安で、一命一体というワンネス、分離差別、区別のない状態ではないのなら
私達は目が開いていない、盲人なのだ
眠っているのだ
目が開いていない事を自覚することは
目覚めに、接近しているのだ、とそう言うことだ
めくらであることを自覚することは
眼が空いている状態を暗示している
自分が狂っていることを自覚することは
狂っていることから遠ざかることだ
だからこそ
眼を開眼しよう
眼をあけるのだ
眠りから覚めよう
自分の焦点を本当の私自身へ
自分の努力の全てを、真の私へ向けるのだ
真の私に否定的と言う方法で接近するのだ
あとは起こる
起こることは私ではない
やってくることは私ではない
認識し知覚されない私こそ
真の私だ
真の私は、既にめくらではなく、盲人ではなく、今此処に存在している
と
上江洲義秀先生は強調される