既知なるものの中にこそ未知なるものはある
とクリシュナムルティーはいう
「既知なるものの中にこそ未知なるものはある」、と
神や悟りを探し求めている個人・私は既知なるものである
真我を実現しようと思っている個人・私は既知なるものである
「神は我なり」と考えている個人・私は既知なるものである
瞑想を行っている個人・私は既知なるものである
「〜なる」「〜良くなろう」「〜ねばならない}と思って、向上しようとしているわたし、人格や自己である自我(エゴ)とは既知なるものである
他人が私以外に存在すると思っているものは既知なるものである
世界や宇宙は私ではないと思っている者は、既知なるものである
「立ち向かう人の心は自分の姿を映している」と思っていない者は、既知なるものである
私以外に自分の知覚対象として、親や子供や友人や社会や職場やグルが在ると思い、
そして神が自分以外に在ると思っている者とは既知なるものである
自分の知覚の対象として恐怖や不安や隠れた欲望や願望を自分の認識対象と思っている者は既知なるものである
自分が自分の運命の行為者であると、
そして日常の行為の行為者であると、
起こるところの出来事の結果を変えられると思っているものとは既知なるものである
観察している者、
思考している者、
行為している者、
自分の人生?を生きていると思っている者は既知なるものである
観察者、思考者、行為者、そして私の人生とは、この運命とは私たちのものではない、
個人の所有物ではない、それらは起こっているものだ、
マインドによって
そもそも個人なるものはこの「現象界の道具として存在しているマインド」によって生み出された錯覚に過ぎない
この現象界を廻すために、(宇宙が生じ、そして「死滅するために)マインドが生み出され、そしてそのマインドが個人という輪廻する想念実体を生み出したのだ
それは記憶である
その記憶の集合体こそ頭脳にアクセスしている地球を取り巻く思考帯であると思われる
既知なるものである、このマインドが頭脳を通じて生み出した個人という人格
そしてその人格をはじめとして、その個人という人格が知覚している外界であるもの、及び内界であるもの、
世界・宇宙及びこの自分自身
外部と内部の分離
これこそ既知なるものである
私によって知覚され、体験されている対象である自分自身と世界、
対象の中には勿論、それを知覚し、認識しているマインドが生み出した自我(エゴ)も含まれている、
知覚者、体験者もこの二元性の既知なるものの中に含まれている
この知覚され、認識されるものである既知なるものを、その既知なるものを
「あるがままをあるがままに見よ」とクリシュナムルティーはいう
この「あるがままをあるがままに見る」ことのなかにこそ、
沈黙が訪れ、
そしてその沈黙の中に
測ることのできない、見ることのできない、想像することのできない、知覚することのできない、考えることのできない
その未知なるものが、「在る」ものが
そっと姿を現しているといわれております
未知なるものとは、勿論真の私である真我のことであるけど
それは「探し求めることの中に」
「瞑想を行うことの中に」
「神と一体と考えたり、思ったりすることの中に」
「ワンネスと思うことの中に」
「実現し、悟ろうと思うことの中に」
はないといいます
それらは時間である自我(エゴ)の働きです
ですので
既知である、それらの上記の自我(エゴ)の働きの中で
意識からの純粋思考を使って
「あるがままをただ見ること」
精神集中するのではなく、思考を使わずに、ただ注意すること
ただ「在る」こと
ただ見ること、
但し、思考や「〜なる」という働きを除外した純粋思考で、ただ「在る」こと
その既知なる主体や客体である、私や対象である家族や人間関係であるものを
即ち、それらの内面で発見される、隠された恐怖や不安や暴力や憎悪などを
「ただ見る」「ただ在る」事によって
それらが実は私自身であったという非二元性、非分離性、全体性へ導かれると言います
「見るものは見られるものである」へと
「虚偽を虚偽と見ること、虚偽のなかに真理を見ること、真理を真理と見ること」が有ると言われています
それは
光を求めていることが、
実は「その光を求めていることそのもの」こそが光からの逃避であり、
その光を求めている者こそが闇であり、非実在と言われている既知なるものであると思います
わたしは何故光を求めるているのでしょうか、
その求めていることこそが、即ち闇の働きであり、
自我(エゴ)の働きであると言われています
そのように自我(エゴ)が動くのではなくて
自我(エゴ)の働きからではなく、
意識本来の働きである「注意」という純粋思考というものを使用して
既知なるものを、ただじっと批判や分析や判断をせずに、
思考を働かせずにじっと受動的に、注意していることこそ
「在る」へと続いていくと言われます
それが「ただ見る」ということ
ですので「光」や、「概念である神」などを求めるのではなくて、
その既知なる闇を闇と「見ること」の中にこそ
光が、言葉にすることが出来ない絶対存在の神があると言われます
「見る」とは非常に難しいことだとおもわれます
「見る」とは考えることを排除し、
「〜なる」ことを排除し、
時間を排除し、
期待することを排除し、
分析を排除し、
思うことを排除し、
一切の思考を除外した中で、ただ在ることであると思われます
ただ真我として、非分離性として在ることだと思います
それこそ上江洲義秀先生の言われる「神は我なり・我は神なり」の状態であると思われます
ですので、そのただ「在ること」のなかに、
創り出した沈黙ではない「やってくる沈黙、訪れてくる沈黙」の中に
測ることのできない未知なるものがそっと姿を現していると
覚者達は言われます
それこそが真の私であり、あなたである私ではないでしょうか