似て非なるもの
似て非なるものを識別するのは誰だろうか
何故識別するのだろうか
識別とは何か
似て非なるものとは実際には何だろうか
この私のレベルでは、これに答えることは不可能である
似て非なるものとは、どういうことか
9割9分同じでも後の1パーセントが違うことによって、実は偽物であったことが露呈する
これを称し「似て非なるもの」と呼ばれている
「似て非なるもの」の判定は、「気づき」という全体性の意識となっている覚者だけが、「この意識」が悟っているか否かを識別できるのであり
その全体性の意識となっていない、私にとっては、相手が本物がどうか、悟っているかどうかを知るよすがもない
「見るものは見られるものである」の意識、その次元の気づきだけが、「その意識」の真偽を看破できる
個人的な事ながら
私には識別心は機能していないのであるけど(目が開いていないと言うこと)
この現在の自分の意識状態を正確に表現しているものを通じて間接的に教えて貰うことが出来る
即ち
関係性が鏡となって
「その意識」が似て非なるものであるのか、そうでないかを示して下さる
私の場合、子供や孫が外国にいるので、私と妻との二人暮らしである
この私の場合の関係性とは
妻以外にも、友人や、近隣や地域、会社、組織などいろいろとあるが
なんと言っても、一番の、自己の意識状態を正確に鏡の様に表現しているのが
一番身近にいる人であり、そして起こっている家の内外の出来事や現象である
これを、正確に受動的に凝視していると
ある程度、「その意識」やその教えなり、それを伝えている相手が、どのようであるかを識別することが出来る
自分の回りの出来事、思考、感情、肉体それらがシンクロして共時的に教えて下さっている
ということが観察していると分かってくる
私の場合は「見るものは見られるものである」であるという「気づき」の意識次元・レベルではないし
その前の意識レベル・次元でもある「魂意識」ともいうべき意識状態にも至っていないので
この肉体の頭脳経由で受信送信している「現在意識」レベル・次元では
虚偽を虚偽と直接に識別することも出来ないし、相手が悟っているか、どうかを識別することも出来ない
ということは
その情報をもたらしている存在が、または語られていることが(教えが)、本物かどうかは正しくは識別できないが
この現在の関係性を鏡として、現在の受け取っている情報、若しくは読んでいる本、この会っているグルが似て非なるものであるか、否かを知ることが出来る
上江洲義秀先生はこういわれた“「宇宙の支配者」は「悟っていない」”と
これはかなり衝撃的な事でもある
では宇宙の支配者とは何であろうか、恐らくあらゆる次元と時間と、そのあらゆる状態を知悉し、力と権限を持っており、錯覚を生み出せるものであることであろう、現象界の全てを把握していることであろう
それでは、この「宇宙の支配者」が「悟っていない」とは何だろうか
恐らく、全ての宇宙と次元と時間と空間を知悉してはいても、(現象界システムを把握していても)
「ハート」が花開いて!?いないのであろう。
そして勿論「似て非なるものである」からには
「見るものは見られるものである」、「私はあなたである」、「全ての権威を否定すること、作らないこと、ならないこと」
「時間と空間は虚偽であること」「自他の分離は存在していないこと」「実際は宇宙はなく、何も起こっていないこと」
「組織を作らないこと、ただ一人在る事」「教会や教えを体系化しないこと、概念化しないこと」
「ヒエラルキーという階層を作らないこと」
等々を語るかもしれない
しかし
再度、よくよく、その語っている「権威のその意識の中身」を注意して見てみると
その真実に似ていることを9割9分語っている中で、1%だけ、異なることを言っていることに気がつくのである
即ち
既に実現していることを説きながらも、微妙に現象界でのヒエラルキーという進化の階梯を説いたり、
自と他は分離していないことを言いながらも、微妙に、「あなたが選ばれた」と言う選民意識をくすぐり強調したり、
時間と空間の虚偽を説きつつも、時間と空間での中のことを強調して、時空を超越させなかったり、
全ては一つであることを説きながらも、自他の分離感を増長させるような事を巧妙に説いたり
知識では決して理解できないことを解説しながらも、知識や思考での範疇の中でのその方法を説き
最高度の教えを具体的に解説していても、自身の権威を樹立させていまい、私たちに本当の自由を与えず、崇拝させること等
良く観察すれば9割9分同じでも、大きく異なるものが1%混ざっており
この1%が触媒作用を起こし99%を変質させてしまう
だからこそ、この1%が、そのものが、それが似ていても非なるものであることを知ることは重要である
この「似て非なるもの」を間接的に識別すること
即ち、私の場合のように、関係性を鏡として注意する方法以外にも
自分のハートの内側で生起していることを注意するやり方も、ハートがある程度開花している人にとっては有効かもしれない
その教えや、情報や、グルや、○○や、本や、指導者に出会ったとき
自分のハートがどのように反応しているかを知ることは非常に重要であると思われる。
その教えが如何に深遠で、妥当性があり、究極であり、あらゆる宇宙系と次元系と、時間空間を超えており、実証され、現象が起こっていても
ハートが熱くなり、愛に満たされることがなく、逆に冷たい感じがしたら、要注意である
だから
ハートの中に何が起こっているのか、それを注意深く観察できるなら、恐らく騙されることはないだろう。
いくら素晴らしい教えで究極を説明していても、それに接している自分のハートに愛の灯が反応して点灯しなければ、それは似て非なるものである
その「意識」と接触することによって、現象がおき、奇跡が起きていても、自分のハートの内側で
隣人を愛する気持ちが、あなたに奉仕するハートが、そして喜んで自分を犠牲に出来るハートの愛の情熱が爆発することがなければ(この愛に金銭が絡むことはない、金銭の授受は愛は関わらない、愛と報酬は無関係であり、お金や報酬を求めることは勿論、愛ではない。愛があるとき金銭は存在しない)
それは似て非なるものである。
全く逆に言えば、
知識や、言葉や、見てくれや、理論ではそれが幼稚で稚拙に思えたり、なにかもの足らないように思え、知的には不完全の様に感じられても、
それを受け取っている自分のハートに愛の喜びが感じられたり、
私たち自身である兄弟に対しての無条件の思いやりと愛が溢れだし、
奉仕する喜びとなって自然と行為がふつふつと沸き起こるとき、
その「教え」、そのグル、「その意識」は本物であると言えるのではないだろうか
現在の、この情報が氾濫し、あらゆる勢力が教え寄せているこの決定的な状況を迎えて
正しく識別することが求められている
だからこそ
似て非なるものに惑わされることなく、真実の道を歩んでいきたい