否定的接近は真我探求のスタート地点へと導く
ニサルガダッタ・マハラジは言う
わたしが何ではないかの否定的接近は思考の最終形態であり
わたしは何であるかの探求はここから始まる、と
否定的接近に感謝する、
真我探求のスタート地点に導いてくださったことを、
真我探求の始まりへと導いて下さったことを
私は否定的接近に感謝している、それは「私ではないもの」の発見であった
そして、いよいよ、これから「わたしであるもの」「私自身」への旅が始まろうとしている
この旅は、無限の道程であろう、なぜなら真の私とは無限であるからである。
今まで、おおくの覚者の導きによって、この真我探求をはじめることの準備として
この旅に出る為に、
この旅に出る前の準備段階として
「私は何ではないのか」と「私は何であるのか」とを、ハッキリ区別するワークを
マインドのレベルで行ってきた。
マインドと思考による「自己観察」がこれである
私ではないものを発見するワークである
これは勿論クリシュナムルティーの言う「見ること」とは違う
この「自己観察」はマインドと思考によって行われる。
この自己観察によって以下のことが判明する
即ち観察する疑似主体の「私」は、思考・マインドであり、
それは、また観察される対象である、客体としての私でもある
それは共にマインドによって作り出されたもの
ふたつともマインドに過ぎないのに
それを、あたかもふたつの主体と客体が、さも存在するかのように
マインド自体が分離して
「観察者」、と、「観察」されるものに分割してきた、ということ
これは本当は一つの状態である
これは「観察者は観察されるもの」というマインド自体の状態なのだ
疑似主体は客体としての自己であるマインドが作ったものであり
マインドの二元性の結果であり、錯覚である。
マインド自体の持つ根本性それが
この見る者と見られるもの、観察者と観察される者の分離という錯覚であるとおもう
そして、これを思考・マインド自体が
この状態に自らが有ることを自ら認識すること
これが否定的接近という事であり
私は何ではないかを明らかにすることである
そして「真の私」ではないものと「真の私」とを判別する事が可能になる
思考やマインドおいて錯覚されること
それが内部に投影されて、見ている主体としての自分、と見られる客体としての自分の区別となる
そして外部に於いては、
自分と自分以外の対象であるところのもの
妻や夫、子ども達、親や同僚、先輩や後輩、社会や世界や自然などとの分離区別である
この区別自体がマインドが作り出したカラクリであり、錯覚であると覚者達は言われている
「気づき」にある人にとっては、
外部と内部の区別、外界と内界の区別
主体と客体の区別は存在しない、といわれている。
だからこそ
覚者達は「世界は私であり、私は世界である」
「宇宙は私であり、私は宇宙である」と言われるのだ
さて、翻ってこの現在の私に目を転ずると
それを見ることに出来ない、この「目」を持っていない私
体験し、経験していることを全て二元性にしてしまう私
この私は、本当の私だろうか
否、
この知覚し、体験し、経験している私は、私ではない、マインドなのだ
この虚偽の私を虚偽と見ること
この否定的接近が私ではないもののプロセスを発見させ、
私とは何であるかの、発見へのスタート地点、そこへと導いてくださった
このことで多くの覚者の方々に感謝するところです
この否定的接近こそが
真我探求のスタート地点であり、
真我探求の始まりであると
「私とは何であるのか」の発見の旅の始まりであると
ニサルガダッタ・マハラジは教えて下さっています
覚者達がマインドの成長へと私達を、導いてくださったのです。
マインドで見る私自体とはマインドそのものであり、思考そのものであると言うこと
それは去来するもの
来ては去っていくもの
それは何だろうか
自己ではないものとは一体何だろうか
観察者、思考するもの、自己
自己関心、自己意識、認識者
知覚
体験
認識
想像
観念
感情
私という傾向、私の情念、ワサナ達
希望
願うこと、祈願、誓願
そして自我・偽我
現在の意識している、このマインドの私
愛する相手が自分とは別の存在であると思って愛する行為
自分が肉体であると思っている観念
自分が輪廻転生している魂だと思っている主体
私は神に選ばれた者であると想像する、自他分離の高慢
普通の人とは違うとすぐ言いたがる増上慢、そして自他の分離性
直ぐに金銭という、偽の価値基準に於いて考える思考
狡猾なビジネスマン
抜け目のないやり手、
計算高い商人
自分の行った愛と善行・純粋素朴を常に意識している利己主義者
私は謙虚だ、私は愛に溢れている、私は善人だと意識しているマインドの錯覚
気づきが有るときそれらの謙虚も善人も進化している私などの自己のこのような認識は存在する余地はないというのに
気づきに於いては私は謙虚だ、私は素朴だ、私は善人だ、私は悟っているとの認識は生まれないと言うのに
これら
自他の分離と、それに基づく行為とその錯覚
自己の個別性に基づく霊的段位・魂の進化などの分離性
これらは結局
私が行っているという錯覚に基づいている
これらが
行為者、私が行為しているという概念を生み出した
しかし本当は、それらの思考や感情や欲望や行動は
私が行っているのではなく、
それらはやってくる
起きている、
行われているのだ
と多くの覚者は言われる
そこに
真の私は関与していない
真の私はカルマに関係したことはない
また、更にもっと突っ込んで言えば
私が悟る、又は私が良くなる、又は私が成就する、そして私が解脱する
などの
根本錯覚
それらの私が悟る、良くなる、愛深くなる、神になる、成就する、解脱する
等の「時間の中の私」はマインドの作り出した錯覚である
このマインドである私は
悟らない、良くならない、愛に溢れない、神になれない、成就しない、解脱しない
なぜなら
それらはマインドであり、私ではない
それらの私は最初から私ではなかったと覚者たちは言われている
それらの良くなるという私、「BECOMINGという私」とは私ではない
それらは
存在していない、
それらは来ては去る者であり、
私ではなかったと言うことが正見されるだけであるといわれる
更に加えて、言うなれば
それら、私ではないものには
注意を向けるべきではないという
それらの私ではないものに意識を向けること
注意を向けることこそ
それら「私ではないもの」に力を与え、より欺瞞を存続させてしまうことだという
それら
エレメンタル(想念凝縮体)を、
ワサナを、
自我をハッキリと見ることが出来るのは
クリシュナムルティーが常々言っているように
気づきだけである
マインドでは「そのあるがままをあるがままに見ること」は出来ない
気づきはそれらをハッキリと見ることが出来
そして
その見ることがレーザー光線のように、それらを焼き切ってしまう、と言われている
しかし
今の段階の私達にはその気づきは無く
従ってそれらを正見することは出来ない
それらは
真の私達ではないと区別し、関心を注がないことが出来るだけである
だから、それらに関心を注ぎ
それらの自我や人格ワサナやエレメンタルに力を与えて、存続させてはいけない
逆に私達は本当の私へ
未知なるものへ
無限の私に
関心と注意を注ぐべきである
四六時中!!
寝ても覚めても!!
私達は全力で、今の段階の私達に出来る、唯一のことを実践すべきである
それは注意である
真の私、真我への注意である!!
「注意」こそ、私達マインドの持っている最後の方法である
そして、その「注意」をそれらのエレメンタルや「私ではないもの」へではなく
真の私である「無限の私」に
注意を向けて
思いを、愛を注ぐべきだと
上江洲義秀先生は力説する
その「注意」を真の私へと、
全体性の私に
非二元性の私に全力で向けるのだ
私の全ての努力と「注意」を真の私、真我へと向けるのだ
黙って、
沈黙の中で、平安の内に
何も「すること」はしないで
真我に関心を集中させよう!!
思考や感情、自己意識、自己関心、自分は肉体であるという錯覚
不安や恐怖、暴力、焦燥感、無力感
それらは二元性、分離性であるマインドが生み出したものである
それには外部のものとして出現する光や神秘現象や神や仏や天使でもある
マインドやエレメンタルやワサナ人格など
それら、このスクリーンに去来する一切のものは去来するものに任せ、
私達はその奥にある全体性、非二元性なる真我を感じるのだ
全ては受動的に
来るもの拒まず、去る者追わずに
ただただ
その空間に、無限の愛の空間に遍満する真の私、
真我に注意を払うこと
非二元性、非分離性、全体性、本当の愛に注意を払うこと
「私であり、あなたである神」に注意を集中させること
ただ座る(勿論活動中も、仕事中も、食事中も、運転中も、人と話しているときも、これは外見ではなく内側で)
目をカット見開いて(勿論肉体の目は瞑っている)注意をはらい
全力で注意して
自分の思考とマインドの全てを真我へ
未知である真の私へと向けるのだ
そして、ここから
真の私への、私とは何であるかの発見の旅はここからスタートする
ニサルガダッタ・マハラジはそのように指摘される
これこそ自己想起である
ここでは勿論
感情や
思考や
知識や
マインドは関わってはいない
それらは
来ては去っていくものだ
この自己観察による否定接近が
ここへと導いて下さったのだ
ここから始まる
「真の私」の発見の旅の
真の私、真我とは
「見るものは見られるものである」であり
全体性であり
非分離性であり
非二元性であり
愛そのものであり
時間を超越している
それは「気づき」ともよばれ、今現在のこの地球人類にとっては想像することなど全く出来ない意識形態であること
それは全てを瞬時に全体を認識すること、限りない歓喜と平安
それは知識ではなく智慧と呼ばれ、愛を以て全てを「私」と認識する気づき
それは内と外との分離が幻想であることを見抜き、
内部が外部であり、外なる宇宙は内なる宇宙であることである気づき
貴方の中に私を見ている状態
私は神であり、全てであり、宇宙のあらゆるところに遍満しすべてであることを実感する状態
「私は在る」の状態
知識では想像することも出来ない、完全なる智慧、
一瞬にして全てを理解し、その原因と結果を支配しているもの
あらゆるものを生かしている生命そのもの、生命それ自体であるもの
それへの旅はいまスタートされる
そのスタート台へと導いたのが
「否定的接近」である
内部は外部であるの認識である
私の内側に知覚されるものは全て、私ではないである