神の御名は“わたし”


上江洲義秀先生は「神の御名は“わたし“である」と言っています

私が思うには
その“わたし“である神に出会うとは、
私の真の“わたし“に出会うこと

この現在のマインドの自分を門として
この現在の汚濁にまみれた自分を門として
この偽我である私を門とし、
入口として

自分の根底・根源まで深く進んで行かなくてはいけないので

結局、自己探求が、真我探求でもあり、それが神との出会いにもなっているのだと思っています


私とは全ての人類や意識のあるいろんな存在の全てに共通して自覚できる主体です
記憶の主体
知覚の主体
認識の主体
感覚の主体
経験の主体です
この主体を、この現在の私を、
此処を門として、
私達は自分の中に入って行かなくては「“私”である神」に出会うことは出来ないと思います

何故なら神とは“私”だからです
“私”が神だからです
私の中を探さなくてはならないのです
他ではないのです

この悲しみと、偽善と、恐怖と、暴力と、憎しみに満ち
存在自体の苦しみにあり
輪廻を繰り返す自分を門として
この偽我を出発点として
私の内側に、
私達ひとりひとり全員共通の内側の中にこそ
神を求め
真我を求め
私達は神の発見に出発しなくてならないと思います

何故なら、神の御名は“私”であり
私の中にのみ存在しているからです
外界は内界であり
外部は内部であり
その内部こそ
鍵があり
発見できる恩寵があるのだと思います


それは、その“私”である神は
何処や彼処ではなく、
即ち、見たり、体験したり、知覚して経験する対象ではなく
主体である私の中に、なのですから
私を、そして私の中に、この神である私を見つけなくてはなりません
主体の奥にある本当の主体を
この体験し知覚している主体を成立させている本当の主体を
未知なる主体を
絶対主体を



モーゼに顕れた神の御名は、
上江洲義秀先生と全く同じように

「わたしはありて在るもの」

「I AM THAT I AM」

といわれました

ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジは
真我とは「我は在る」「I AM THAT I AM」であると毎回いつも強調されております

ですから内なる真我こそ神そのものであり、そしてそれは本当の私なのだと思われます

真我こそ“私”であり、それが神の御名なのです

そしてそれは「ありて在るもの」であり
時間と空間を超えて
あらゆる時に、過去に、未来に、全ての時に、すべての今にあり、完全に存在し
あらゆる所に遍在し、それでないものは宇宙に存在しないもの
外部は内部である
存在そのもの

そしてそれは我が内に在る存在
内部と外部の分離性を超越し
「見るものは見られるものである」である状態であるもの
そして
尚かつ
「見るものは見られるものである」のなかで
“私”の中で、言葉無き言葉で語るもの

“私”

一命一体

上江洲義秀先生が指し示す
全体

全体そのもの
それが
聖なるものだと思います

この神は概念的存在ではなく
また想念形態や思考の凝縮物としての実体ではなく
人類の集合意識が創りだしたものではなく
ある高次界の意識的存在でもなく
また他次元や多くの宇宙の宇宙的意識存在でもなく

また人格神や神界や天界などの個人的な存在ではありません

即ちいわゆる私達の神秘現象としての知覚・体験・認識の対象としての神ではありません

それらは結局は全て真の“私”ではなく

私の対象であるのです
「見るものは見られるものである」であるとおもいます

私の対象であるものは“私”ではありません
見る者と見られるものの二元性は“私”ではありません

真実の“私”は

真実の“わたし“である神は

それは「見るものは見られるものである」の中

非二元性の分離のない状態の中で

全体性の中で

“私”として、

真我として

“わたし“である神として

存在として在る私なのだと思われます

それこそ上江洲義秀先生が指し示す神であり、真我なのだと思います

私自身は余り神という概念が好きではないので

基底とか、基盤とか、根底とか、非二元性とか、非分離性とか

「見るものは見られるものである」の状態とか

全体性とか、絶対とか、完全完璧、絶対愛、絶対歓喜、絶対沈黙

絶対主体性とか

そう言われた方がすっきりしますけど

 

クリシュナムルティーも言っているように
その全体性そのものは人格でも神格でもなく、それを超えているのだと、

従ってその状態は、
全体性の中で「
I AM THAT I AM」という中で、
私達の計り知ることのできない
コミュニケーションが沈黙の中で行われるのだと思います

その状態が上江洲義秀先生の状態であると

私は思っています


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