意識の座(永遠のパーソナリティー)は誰のものか


意識の座には条件付けられた遺伝子によって、又同じく条件付けられた脳を経由してマインドが届く

意識の座にはそのプログラムされた脳を経由して、条件付けに従って限られた外界の知覚が届く

意識の座にはその肉体の脳とは別の、同じように条件付けられた精妙体の脳を経由してマインドが届く

意識の座にはそれらの脳を経由することによりその脳の内容によって創作され変形された自己意識と、その創作された自己の感情と認識が届く

意識の座にはその意識の座を被っている真我の或る瞬間の想念の意識が届く、その想念それが「自我・私」の根本であると考えられる

では

意識の座に、根源から色々と条件付けられプログラムされて届けられるマインドの中身とは一体何だろう

それは私という感覚、各種の私

それは私のものとおもわれている閉塞感、焦燥感、憂鬱感、希望感、閉塞感、高揚感、絶望感、一体感、躁鬱感、開放感、不安感、成就感、達成感(それが私自身のものと錯覚して届き意識される)

それは自意識、そして自己関心

それは自分がしていると思われているあらゆる体験、経験、詳しくは地獄の体験、天国の体験、悟りの体験、宇宙の体験、神や天使との遭遇体験、悪魔や暗黒や光明の体験等々

それは自分が持つと思っているあらゆる感情、即ち愛の感情、憎しみの感情、喜びの感情、そしてすべての感情のバラエティー、巻き起こる感覚と感情、突然訪れる抗しがたい感情や激情、突然口から出る訪れる感情、感覚、思い、記憶

それはあらゆる自分のものと思っている思考、考え、個人的な想念、個人的な現在の思い、意見、概念

それはいつも自分にとりついている或る特定の心の縛り、決まってパターンで訪れる形象や衝動思い、ワサナ、カルマ

それは自分のものと思われている或る意識の周波数のもつ感覚、或る意識の持つ基本ベースの感覚

それは自分そのものと思っている過去世の体験、来世の体験、記憶、色んなレベルでの記憶、色んなレベルの主体

そして自分自身、ハイアーセルフなどという錯覚

これらは
この意識の座に届く所の
条件付けを通して各種の脳からアウトプットされた、マインドのインプットの中身だと思う

その条件づけとプログラムは
最初から最後までの全てが完璧に実行され、行われる、自我は全く関わらない、いや関われない
過去から未来までが一巻の巻物として完璧に書かれている、若しくは遺伝子情報として書き込まれている、完璧な情報システム
それが私達を動かしコントロールし、それによって生かされている

私達はその結果

自分という感覚を持つようになったに過ぎない

自我とは、私とはそのプログラムがもたらした結果の感覚に過ぎないと思われる
私とは単なる、その結果起きた概念であるのに過ぎないのではないだろうか

それが意識の座に訪れ意識されているのであると考えられる

そして
その意識の座のそのものを、そのプログラムをした根源が作りコントロールしているのである

だからその意識の座そのものは、そのプログラムをした根源が
過去現在未来に渡って、完全完璧にコントロールしている

と言うより
その意識の座はそのプログラムをした根源そのもの自身である

と言う方がより実体に近いように思われる

私達の内面は
全てそのプログラムをした根源そのもの自身である

それ自身であると思われる

宇宙とこの現象界、この三界全体を運営するために
この現象界の過去現在未来を成立するために
その意識の座は作られ運営されているのではないだろうか

真に存在するのは
この根源の「意識の座」によって、存在していると思われている
概念の自我ではなく
意識の座を運営している根源だけである

この意識の座だけではなく、全ての意識の座に於いて
全ては起きている
全ては起こっている
全ては完璧に設計図通りに行われる
この設計図は外界と内界を支配し実行されている

この根源が
私達の脳の条件付けを行い、プログラムを作成し、そして根源のマインドを作り
この根源のマインドが
私達の幻想の自我を作り
私達の感情と思考と感覚と想念とを意識の座に送り、体験し、経験し、知覚させている

私達が体験し、経験しているのではない!!!

その根源が
私達の意識の座を作って、それで、そこで
この現象界を体験し、経験しているのだ
と思われる

そう言うわけであるので
自分も他人も幻想である
そう思わされているだけである

全ては
その根源の聖なる物語の指人形の一人なのだとおもう
全ては一なるものの現象、現れに過ぎないのではないか

全ては聖なる出来事
全ては完全なる出来事
起こることは全ては完全な聖なる出来事なのだろう
一なる唯一の根源が行っていること
外界と
内界に起きている全てのことは
既に決定されたことが
既に起きたことが
設計図に従って
開陳されているに過ぎない
時間は幻想に過ぎないのではないか

私が生きているのではない
聖なる根源が
この意識の座を使って体験しているのだ

私とは行為し、思い、感情や思考や色んな衝動や感覚を知覚し体験している主体ではない
私とは根源がマインドによって作り出した概念に過ぎないと結論される

現象界とは根源からの二元性によって
この現在の意識の座において認識される映画であり、演劇であり、物語である
この二元性こそ
根源が現象界を成立するために作ったシステムの根幹とも言える
だから

全て
自分という幻想も、相手と言う幻想も、即ち主体とその対象たる客体も
根源が二元性のシステム(この分離すること自体である主体−客体の)を使って
完全な現象界を、
完全に現象界を完璧に全て運営している
根源は完全であり、完璧である
それが起こしている

だから
自分に起こることは
全て
決まっているし

何も自由意志は存在しない
自分に起きているだけ
この意識に起こっているだけ
…設計図に従って……

それを錯覚して、自分がしていると思い込んでいるだけ
ではないだろうか


自我である私は
なにも行為していない、関わっていない
何故なら
行為している、本当の主体は
根源であって
自我である私とは
その根源が作り出した虚構の意識なのだと推測される
根源の使っている物語の数十億本の指人形の一つなのだ

そして
その根源が
神を生みだし、私達をうみだし
神を成立させ私達を成立させ、カルマとワサナを作り出し三界での物語を支えている
のではないだろうか

その根源とは

それは対象ではない
それは対象をうみだしたもの
この現象界の根源である二元性を生み出したもの

非二元性そのもの

この非二元性は
「見るものは見られるものである」そのものであり
認識の対象ではない
知覚の対象ではない
知識の対象ではない
経験の対象ではない

だから
その根源とは
真我の別の側面ではないだろうか
ブラフマンとはアートマンの側面なのだろうか

だからこそ
その根源は
対象化できない
客体化出来ない

ニサルガダッタ・マハラジ、ラマナ・マハルシは言う
本当の主体である真我は
「在る」である
「I AM」として内部と外部を超越し、時間と空間を超越したとき顕現すると

その真我に於いては
本当は何も起きてはいない

その真我に於いては
その真我の「いま、ここ」の状態は
この起きていることに関わっていないと





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