全受容(あるがままの私を受け入れること)



ラメッシは云う「エゴを受け入れなさい」と



確かにこの教えは、未成年にとっては問題を引き起こしやすいので

この言葉だけとってそれを伝えるわけにはいかないだろう

ある程度、人生で自我の内部観察を実行した上での話なのだからだ

だからこの言葉は非常に誤解されやすいのだ

人を見て話す必要が有る


ラメッシは云う

エゴを受け入れよう

全受容しようではないかと



ではエゴの働きとは、なにか

勿論、知覚すること、識別すること、認識すること、体験すること、理解すること、知ること、見る事、記憶すること

等ではあるけど最大の特徴とは


それはエゴがエゴを非難することだ、


エゴとは自分を非難するものなのだ、そして良くなろうとし、自分から逃避する

エゴとは結果であるので原因の対極にあり、原因とペアになって存在している、結果とは原因が支えているのに

自分を結果ではないと想像しているのだ


エゴとは自分であるエゴを対極の状態(神という概念)と比較しそれになろうとするのが特徴だ

そして自分を非難する、逐一エゴを観察して批評する・・自分とはこのレベルで・・・、

自分の認識はこのレベルなのだと・・・、自分はこうなのだ、ああなのだと・・・

なので

当然、良くなろうとする、〜になろうとする、到ろう、実現しようとする、神と一つになろうとする、愛しようとする

そしてその為の努力をしはじめる

けれどこのエゴを対象として観察する分離認識というもの自体(主体と客体の分離)がエゴの持っている

二元性内の自我観察の限界なので、

そのエゴがエゴを認識するという働きが作動して、

この恐怖と暴力と愛のない自分から愛の溢れ高次の自己へと良くなろうとして色々と働きだし

自分を変えようとして努力をはじめる。

が、しかしこれがエゴの働きであり、これではエゴの範囲内から外に出ることはない、

この結果である人格・私という私は決して「見るものは見られるものである」であることはない


この認識し認識されている自分を変えようとし、良くなろうとすることが自我エゴの働きであるから

自分の自我を非難し、良くなろうとし、向上し、変革し、自己自身を消滅させようとする、

そしてその為の努力をすること、祈ること、色々とワークすること、神を信じること

これこそが自我の働きであるのだ

エゴは常に自己を、そしてその恐怖や暴力や憎悪を対象として認識して、観察しており
(実際は自我(エゴ)が自身を主体と客体・対象に分割しているに過ぎないのに)


その自我自身の認識を通じて〜になろうとする欲望がその自我の条件づけから発生して

自己を改善しようとしたり、

現状のままであってはいけないのだ、愛深く、親切でなくてはとのエゴへの非難や逃避が始まり

死ぬまで勉強し学なのだなどといって、自己から逃避してしまい、所謂求道者や良い人となってしまう

これが悲惨とテロの決定的な要因であり宗教戦争の元になっている


そしてさらに進むと、そのエゴは学習し、より複雑となり、その自身であるエゴからの逃避の一形態として

このエゴをエゴが観察し(これはクリシュナムルティーのいう自己観察ではない)、

エゴという分離している主体が投影した神という客体に懇願したり、その神に自己の終焉を願ったりするのである

これらはあるがままからの逃避であり、あるがままを直視しないことから生じている「条件付け」の結果である

私達のエゴという自己はあるがままから逃避し直視しないように、また出来ないように条件付けられているのである

起きること、起きたこと、起きている事はプログラムであり、エゴとはプログラムそのものである

真の私とはそれを観照している私である、起きている事である時間や空間とは直接的には関係していない

現況での自己にとっては真の意味で思考や観念を伴わない自由である「行為」というものは行われることはなく

頭脳とプログラムによる条件付けの反応である「行動」(行為者という観念)しか出来ないように

仕組まれて思考し、願い、感じるようにセットされているのである、

全てのこの二元であり分離している頭脳経由の認識内での時間空間というマトリックスの中で

プログラムが起きて(起動されて)いるのである、自己・エゴとはプログラムでありその結果である



けれど



ラメッシはこの自我を受け入れなさいと言われる、エゴを花開かせなさいと云われる、

しかし無理に花開かせようとすれば

花は開かないで萎んでしまう、

恐怖のこの自己を全て受け入れなさい、全受容しなさい

暴力の自己を全て受け入れなさい

思いやりのない自己をエゴを全て受け入れなさい、愛のない私を受け入れなさい

プログラムを受け入れなさい

わたしエゴがエゴ自身を受け入れなさい、全受容しなさい

そして、結果であるエゴを通じて投影されている全ての結果を全受容しなさいと

そしてさらに原因であり結果である私自身・プログラムを受け入れなさいと


それらは起こっていることであり真の私の前を去来していることであると


この恐怖と暴力と愛の欠如と不安と憎悪の自分を(それはまた認識している私であると同時に認識対象である

恐怖であり暴力であり、愛のなさ、不安、憎悪そのものであるとおもう、認識するものはされる者だからだ)



この全て受け入れると云うことの中で一体何が花開くのであろうか



その、エゴを完全に受容しているとき、もはや

それらのエゴからの

逃避ということはなく、同一化と云うこともなく、非難もなく、判断もなく、願うこともなく、

思う事や考えることも感覚や知覚もないであろう


あるがままだけがあると云われる

あるがままがあるがままに在ると云われる

結果が結果として原因として分離せずに在ると云われている


ここから先はこの私は此処では言いことができない、何故ならまだ実践途中であるからだ

けれど

あるがままであるとき

なにがどうなるのか、どうであるのか、私には実感できないが

ただ安心の気持ちだけが充満しているのではないかと推測する、これでよいのだと・・・


このエゴである私とは結果であり、原因でもあるのだろうか・・・

これらの結果と原因という二元性とは何なのか

この二元性は対極から成立しているのではないか・・・

この二元性ということは

対立し対極にあるものは、相反するものをお互いに含んでいると云うこと、

相反する対極にあるものがもう一方を成立させていると云うことだ

その対極している相反するものは、それと正反対のことによって成立していると云うことだ

二元性は対極から成立している、相対することから成立している

だからエゴとは、この非難され、また自身も非難し、良くなろうとし、常に超克しようとして努力している結果であるが

この自己と云う自我とは真我が成立させているということだ

二元性は対極構造から成立しているという、二元性をこの観点(非二元性)から見た場合は

善と悪は分離していない、善は悪で、悪は善である(これは誤解されるので未成年には言えない言葉であるけど)

美と醜は同じである、成功は失敗でもある、冨は貧しさでもある、上昇は下降でもあり

創造は破壊でもある

個人とは全体であり、全体が個人でもある、全体があるから個人がある

光りは闇があるから光りであり、影という闇は光りが支えている、光りと闇は同じものの両面である
(しかしこれを違った観点から云えば闇という二元性が見られたときその闇は存在せず光りだけで在ったという
ことでもある)

上位があるのは下位があるからであり、トップは最低があるからである

憎悪はその対極の思いやりがあるからあるのだ

神は悪魔がいるから神と云える、また悪魔は神があるので悪魔と云える、それは同じものだ

原因は結果である「自我(エゴ)としての私」が逆に原因を成立させている

虚偽の中で虚偽を虚偽と見る事によって真理が生まれる、若しくは既に在ることが再発見される

そしてこの二元性という結果の中にこそ非二元性というものがあると

アドヴァイタの覚者は言われるのではないだろうか



虚偽を虚偽と見る事の中に真理は在ると常々云われる所以である

究極はこの対極という構造である二元性を二元性と見る事の中に在ると言われる

実相はこの仮象である現象(マーヤ)を現象(マーヤ)と見る事の中に在ると言われる

真我は「自我(エゴ)としての私・プログラム」を「自我・私・プログラム」と見る事の中に在ると言われる

原因は結果を結果と見る事の中に在ると思われる

非二元性は原因と結果がともに同じであることを見ることに中に在るのではないか

覚醒及び目覚めは私達は眠っていることを眠っていると見る事の中に在ると言われる

愛は私達が愛ではないことを直視することの中に在ると言われる

そして絶対主体である非二元性の真の私とはこの虚偽を虚偽と見る事の中に誕生していると言われる

そして

なることは在ることの否定であり、なろうとすることは在ることになることはなく、

到ろうとすることは、既に到っている「実在」を否定することである

「在ろうと努力することは、既に在ることの否定である」ことを見る事の中に実在は花開くと言われる

それが道元の云われる「正法眼蔵」でもあるのではないだろうか







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