良くなろう、自分を変えようとすることは良きこと・愛の否定だ
良くなろうとすること、愛深くなろうとすること、悟ろうとすること、自分を変えようと努力すること、絶対なる神と一体になろうとすることこそが、良きこと、絶対なるものの否定だ
「〜なる」こと、「求めること」を止めよう、あるがままのあるがままで在ろう!
ニサルガダッタ・マハラジはこのように言っている
「思考が起こるに任せ、それらを見ることだ。
その観察自体がマインドをゆっくりさせ、完全に止まらせる。
ひとたびマインドが静まったら、それを静かに保ちなさい、平安に飽きてはならない、そのなかに在りなさい。
その中により深く入っていきなさい」
「あなたの思考を見なさい。
そして思考を見ているあなた自身を見なさい。
全ての思考から自由になった状態が突然に起こるだろう。
そしてその至福によって、それを認識するだろう」
「この世界は、あなたのマインドの中で生き、そして動いているのだ。
マインドの中を探求しなさい。
あなたの答えはそこに、そこにのみ見いだされる。
ほかのどこからそれらがやってくるというのかね?
あなたの意識の外側に何か存在するものがあるというのだろうか?
在ることが知ることから分離できるだろうか?」
あるがままの中に、そこにのみ全ては既にあるという
未知なるものをどうして求めることが出来るのだろうか、知らないのに、想像も出来ないものを
知らない状態のものを如何にして求めることが出来るだろうか
だから、その私が求めているものは
未知なるものであるものや、愛や、絶対なる非分離性ではなく
私の自己の安全であり、安定であり、この既知なる自己の利己的な進歩や完成なのだ
それは自己の欲望が成就されることを願っているだけであり、
既知なる自分自身を投影した、その自分の中身自身なのであって、本当には未知なるものを願うことはできないのだ
未知なるものは求めることは出来ない
知らないのだから
知らないし、想像も出来ないものを求めることは出来ないのだ
私が求めているものは、単にマインドそのものであるものを、「神」とか「光」という名称を付けただけだ
だから求めているは自分の願望であり
それは「〜なる」ことであり、存続することであり、架空の成就することなど利己的な動機に基づいているものである
それは常に将来に目を向け、自己から目を背け、自分が投影した欲望の虜になっていることである
努力して、自分ではないものに変わろうとして、自分から逃避しているのだ、自分を恐れ、自分を憎んでいるのだ
それは須く、自分を避けて、自己から逃げていることだ、そして逃げるために自己と同一化しようとしているのだ
では果たして、自分は自分以外のものである事が出来るのだろうか、自分以外のものになることが出来るのだろうか
自分は自分以外のものへと、「〜よくなる」事は出来るのであろうか
クリシュナムルティーは
信仰厚き神を求めている人に
実際には、その光や神を求めていることとは、闇の中に留まり続けることだと言っている
何故なら、私たちが求めている「光」とは闇であるものが、その闇を投影して(マインドが自身の範囲内で知ることの出来る既知なるものであるものを)「光」と、そのように呼称しているだけだからだ
だから私たちの求めている「光」とは、実際にはマインドである闇の呼び名を変えた闇であるに過ぎない
そういうわけであるので、光を求める事を止めて、闇を「見よ」と言っている
(但し、この見るとは、闇を対象として、分離して見るという、思考での「見る」ではないこと、即ち「見るものは見られるものである」の「見る」ことである)
その闇を闇と見るときに、そのまさにそのときにこそ、「闇」は存在せず、その闇を見ることそのものが「光」なのであるという
闇を見きれたとき、そこに最初から光があると言われている
虚偽を虚偽と見ること自体が真理であり光なのだ
とおおまかに言ってそのように言われている
であるので
私たちはこの知覚可能なあるがままの私から逃避することなく、
またこの私を逃避し、非難し、判断して、軽蔑したり、嫌がったりせず、憎んだりせず、また同一化したりしようとせず
そして、この知覚し、認識される「あるがままの私というマインド」を邪悪だとか、闇だとか、恐怖だとか、不安だとか、イライラだとか、憎しみだとか、偏見だとかそのように非難し、判断し、拒絶し、逃避することなく
このあるがままの自己としてやってくるものを凝視し、注意しなさいと言われる
その自己そのものは、それは自己の見られる対象ではない、それこそ、その恐怖が私自身なのだ、
見ている自分もなく、見られている対象もなく、
見ている恐怖もなく、見られている恐怖もなく、ただ恐怖だけがある
これを見ている観察者は、その観察される対象そのものなのだ
それをあたかも自分ではないものとして対象であるかのように錯覚させているものこそ、
その知覚対象であるところの憎しみや不安や恐怖であるマインドそれ自体なのだ
そういうわけであるので
だから観察されているこの自分を整理したり、判断したり、分類したり、非難したりせず、逃げようとしたりせず
その対象は見る者自身として、深く凝視し、留まろうではないか、何処にも行かず、なろうともせずに
良くなろうとしたり、何かより高い認識を得ようとしたり、進歩したり、解脱しようとしたり、悟ろうとしたりせずに、
「気づき」を得ようとしたりして、行う瞑想も、ワークも、そして祈りも、
本当は〜になろうとしている虚偽の自分の行為であり、その自己自体のあるがままからの逃避であり、
その逃避する行為自体が「良くなろうとするマインド」の動きであり、そのマインドに占有されている証拠なのだ
マインドがそのマインドの状態から逃げようとしたりして、より高いと思っている(実はそのマインドの既知なる願望に過ぎないこと)光とか、高次の気づきとか、悟りとか、神との合一を求め、自身であるマインドからの脱出を試み求めているのだ
マインドがマインドを良くしようとしたりして、自分のより高い瞑想の境地や、神との合一を求め続ける主体を生み出したのだ
だから良くなろうとしている主体は、マインドが生み出した架空の存在に過ぎない
二元性は非二元性にはなれない、分離性は非分離性になることはない
二元性が無いときに、非二元性がある、分離性が無いときに、非分離性があり、全体性がある
マインドが無いとき「気づき」がある
自我(エゴ)が消滅し、自己が無いとき真の私がある
なのに、マインドが何とかして、進歩しよう、良くなろう、高次の気づきの状態に至ろうとしているのだ
このなろうとすることはマインドの動きだ
私とはあるがままである
あるがままとは受け入れるも、受け入れないも無い、わたしとはあるがままのこの状態であるのだ、
このあるがままがあるがままの自分なのだ
だから私は何処にも行かない、留まる、そして、〜になることを止める、あるがままを受動的に凝視するのだ
「見るものは見られるものである」であるのだ
より高い自分や、より高次の真我になろうとして、自己改善や自己観察や、ワークや瞑想をすること自体が逃避であり、マインドとの自己同一化なのだ、それこそマインドという偽我の術中に陥ることだ、それはあるがままを憎悪しているのだ
逃避を止めよう
「〜なる」こと、良くなろうとすること、
進歩すること、努力することを止めよう、
何か良くなろうとする願いを放棄しよう
将来への動機を一切捨てて、ただあるがままの自己を鋭敏に注意しよう、沈黙して
私とは、現に此処にあるあるがままのものであり、架空のものではない
だからこのあるがままの自分をあるがままに見るのだ、分離せず
良くなろうとして善行をしたり、真我に至ろうとして瞑想したり、努力することは、真の瞑想の否定であり、良きことの否定である
だから、何処にも行かない、何もしない、する必要がない、「〜へと良くなる」ことを止めよう、
ただ「今・此処」にあるのだ
「良くなる」の努力は、私たちを何処にも行かせることは出来ないし、良くなることも結局は出来ないのだ
進歩は虚偽だ、時間は虚偽だ
クリシュナムルティーは虚偽を虚偽と見ることそのものが光であり真理であると言われる
であるので、真の変革は
今此処のあるがままで在ること
あるがままのこの現実のマインドの自分を、そのマインドが創った自分でハッキリと見ることだ
逃避せず、同一化せず
「〜なる」事をせず、避けず、憎まず
何も求めず、一切願わず
何処にも行かず、今此処に在ることだ
そういうことであるので、どうやら鍵は、良くなろうとせず、何処にも行かず、此処に留まり、このあるがままの自己を凝視し、
この現在の自己を受け入れ、拒否することなく、逃避せず、同一化せず、そして良くなろうと藻掻き求め続けていたことを止めることにあるようだ