第1想念、とは何か

ラマナ・マハリシはいう
私という最初の自我(エゴ)の想念の根源まで行きなさい
私という根源的自我(エゴ)の想念の出現するその現場に行きなさい
その私という想念の生まれてくるその根源にたどり着き、
その根源を見なさい。と
そしてそのとき
その私という第1番目の想念は想念であり、何処にも存在していなかったということ、
そもそも存在などしていなかったことを知るでしょうと

そしてそこにたどり着いたとき、貴方はその私という第1想念ではなく、
真我そのものであったことを知るでしょうと
そこでは私・自我(エゴ)は脱落していることでしょうと、
そこでは私の内部も外部もなく、内部・外部というその区別が無いことでしょうと


ラマナ・マハリシは私達の想念を第1想念、第2想念、第3想念と便宜上区別している

第1想念とは

真我が現象界に、即ち、時間、空間の特定ポイントに出現した際に、
真我から出現した一番はじめの錯覚・想念であるという、

それがこの偽我という贋の私の本質であり、
エレブナではサイコノエティック体とよばれている実存の本質であり、
人格・個別性の魂などともよばれているものであると思われる

そして
その想念が生じる根源こそ真我であり、
真我が現象界に出現したとき、
この観照者の意識の座を通じて、現象界というマインドに、この第1想念が発生していくと言われる、
ではそこの第1想念の発生の根源に行くための前提条件として、私たちには恩寵である真我の火花と、その体験が事前に起こっている必要があるのではないか

この火花によって私たちは松明である「気づき」をかざして、この第1想念の根源に接近しなければならない

それは第1想念が第1想念の根源に向かうと言うことである
自我(エゴ)が自我(エゴ)の終焉と絶滅に向かって歩むと言うことである


第2想念とは:

この第1想念という偽我である自我(エゴ)の表層意識面に

肉体などの多くの身体と肉体頭脳等を経由して、
更に多くの私自身と錯覚・認識されるところの思考や感情や想念が外部からやってくる、

それら外部からやってくる想念、思考である(ワサナの潜在意識も含まれる)恐怖や不安、暴力などを第2想念という

通常私たちは、やってくる、それらのワサナ達からの思考や感情に対して、第1想念が条件付けられた範囲で反応する結果、

その不安や暴力や恐怖から逃げたり、気を紛らわして逃避したり、
また逃げるために自己同一化しようとするが、
この働きこそ第2想念から引き起こされたところの第1想念の(条件付けからの)反応とよばれるものである、

これらの反応行動は、全て第1想念の自我(エゴ)の意識の条件付けられた条件反応であり、自我(エゴ)の特徴である
これが
避けよう、逃げようとする逃避や自己同一化をしている第1想念の動きである

私達はこの自我(エゴ)の想念を注視し、凝視しつつ、
その自我(エゴ)である想念に同一化することなく、
その第1想念の動きそのものと共にいることが出来る

しかし
その第1想念を本当に「見る」ということは、
思考や想念を使わず、
既に恩寵で与えられている真我の火花である「気づき・注意」という松明を掲げ、
根源まで進み行き、第1想念である自我(エゴ)がどのように動いているのか受動的に凝視すると言うことであるが、

これは起きることである。

マインドである第1想念には本当の意味で第1想念自体を「見ること」はできない、
見るためには、既にその無思考という「眼」で在ること、
「気づき」が既に起こっている必要がある


第3想念とは


その外部からの思考想念を、
また二元性そのものであるところの第1想念である自我(エゴ)の思考や想念を
この分離の二元性の間で伝達可能にする媒体、
それが私達の使用している言語や言葉であり知識や情報であるという

そして
真我はその第1想念、第2想念、第3想念が起きている座、意識の座として、
それらを観照している意識の全体であるという


ラマナ・マハリシは

私たちがこの第1想念の出現する、その現場にまでたどり着き、
その自我(エゴ)の根源に至りなさいという
そして、そこに至ったとき自我(エゴ)は単なる想念でしかないこと
私・自我(エゴ)は何処にもいないこと
そして、自我(エゴ)の絶滅が行われると言われる、
これが解脱への道と言われる

けれども、また、その第1想念である自我(エゴ)というものは真我という観照者の意識の座という基盤があればこそ、発現することができるのであり、
その基盤である意識の座というものが無ければ、
そもそも発現することすらなかったという、
同じように第2想念は第1想念に依存し、第3想念は第2想念にそれぞれ依存しているという



この第1想念の自我(エゴ)の根源に至ることは何故、大切であるかと言えば
この第1想念の根源に至ることこそ、自我の終焉の道
そこが
第1想念である自我(エゴ)は想念であったこと、
主体客体の区別や、内部と外部の区別分離は自我(エゴ)の錯覚であったことが、おのづと判明するからであると、語られています

この自我(エゴ)の絶滅、終焉こそ私たちの目的そのものではないでしょうか

真我は最初からあるもので、この「気づきという意識」を覆っている想念が最初からなかったと言うことを気づくことが悟りだと思われます、真我の意識だと思います

しかし、
その第1想念の根源に至るためには「気づき」という松明が無ければ先に進むことが出来ません

この自我(エゴ)を凝視する受動的凝視に必要なる、「気づき」は与えられるものであり、起こるものです

しかし
これは現象界側から見た場合の事であり

真我側から見た場合は
既に私たちはその眼自体であり、真我そのものであり

現象界に起きることは全て錯覚であり、夢であり、幻想であり、
その外部と内部という分離の二元性である現象界はそもそも存在していないと言うことになります

これはアセッションに関しても言えることで
より高次の「気づきに近い」次元に移行するということは、
あくまでこの現象界での出来事です

これに反して
事実は、この次元上昇という現象界の出来事自体がそもそも幻想であり、夢であると言うことです

事実は、二元性の心が存在しない無思考、無想念で、非分離性で在るとき
その覚醒の眼で見たとき、内部は外部であり、宇宙は自分自身であり、既に完全完璧であり、アセッションの必要のない、次元を超越した全ては私である、一つの世界(真我)である、と言うことでしょう

話は最初に戻り第1想念とは、その錯覚とはどんな中身でしょうか
具体的に、其の自我(エゴ)そのものである第1想念とはどんな想念でしょうか、感覚でしょうか

私は第1想念の想念の主なる特徴を次のように考えます


☆自分は悟っていない、と錯覚すること

☆自分には、まだ恩寵である「気づき」がなく、従って真に見ることが出来ないのだと考えること

☆自分には、この「気づき」という非分離性、「内部は外部である」という宇宙意識がなく、恩寵として将来やってくるのだと思うこと

☆自分は主体であると錯覚すること、見られる思考や感情などの客体が在ると錯覚すること

☆自分が主体と感じ、客体としての自己の内部や家庭や家族や職場や世界や宇宙を感じること

☆自分が行為者であり、行為の為し手であると錯覚すること
(本当は行為や出来事は現象界内に起きている事であって、
そこには行為している者はおらず、
ただ単に行為も出来事も起きている
とラマナ・マハリシ達は言われます、

従って第1想念である自我(エゴ)も真我も
共に行為や出来事には関与していないということであり、
肉体も他の高級諸体も、そして外部からの思考や想念や感情も、
従って肉体や諸体の行為も、その肉体や諸体が引き起こす出来事も
全ては根源からのプログラムと言う筋書き通りに従って起こっている現象界という
夢という錯覚の映像であり、
観照者の意識のスクリーンという座に繰り広げられている、
投影されている映画だということです)

☆自分は主体と客体に分離をしていると、錯覚し
内部と外部と言う具合に知覚し認識をすること
しかし内部と外部に分けること、内面と外面に、主体と客体に分けることこそが第1想念の徴であり、実際には内部は無く、外部もないという、主体もなく客体もなく、だからこそ「内部は外部である」と言われています

☆自分が全体であると思考すること、または自分が神であると想念で思うこと、思考すること、願うこと
(いくら真実であることに対することであっても、その想念、その思考こそ第1想念であり、そう思い、そう思考することで、その思考・想念・感情の奥に潜んでいる、自分は真我・神ではない、という第1想念の疑念そのものが助長される結果になる事もあります)

☆自分は真我ではないと錯覚し、真我覚醒を必死になって求め、追求し、そこに至る方法を模索し、道を歩むところの、その主体、また、その真我覚醒を求めて行う、瞑想などの努力、日々の実践

☆わたしは既に宇宙の絶対なる神・全体であるのに、それとの融合を求めて瞑想する主体

☆わたしは既にそうであるのに、将来、宇宙意識に到達し、神と融合することを希望し、熱願し、思うこと、努力すること

☆わたしは自我(エゴ)であり、神や宇宙意識ではないと思うこと
(この思うことという想念や思考、感情、記憶など、これらの心の完全なる絶滅の状態こそが、即ち神なる真我・宇宙意識の発現であるという)

☆わたしは非二元性である宇宙意識そのものであるのに、そうではないと信じて、その結果、神を内部や外部に求めてしまうこと

☆わたしが神そのものであるのに、内側や外側に絶対なる神があると錯覚し、そうして出現した神を崇拝すること

☆わたしは全てであり、宇宙に遍在しているのに、内部や外部にわたし以外の存在が在ると錯覚し、そして神や他人や聖者を対象として認識してしまうこと

☆わたしは他人そのものであるのに、わたし以外に他者の存在を認識し知覚している状態

☆わたしは絶対なる神であり、全体であるのに、わたし以外に神や全体を求めること、また神と一体になろうとして努力していること

☆自分はこの客観的世界におり、この客観的宇宙に客観的に存在していると錯覚し、外部に世界を見て、外部に宇宙を感じている状態

☆自分が内部と外部の区別、分離に捕らわれ、世界のため何か良いことをしようとすること、
アセッションに際して、この個別的な自分という個人には、なにか偉大な任務があると思うこと

(真実は、この世界も宇宙も自分の投影であり、その第1想念の投影が終了したときは、知覚している世界も宇宙も、アセッションも、そしてこの肉体も、そして自己も他人も消滅し、非二元性のわたしのなかに一つとなり、全ては完全完璧である真我が一命一体として、唯一なる我は全てであり、全ては唯一なる我であるとして現全する)

☆自分が五感(この条件付けられた錯覚の張本人である)から来ている知覚で以て、錯覚した結果、自分とはこの個人的な個人の肉体であり他の高級な身体であると錯覚すること

☆自分はこの条件付けられた五感からもたらされる知覚を「自分の五感、知覚、感覚」と錯覚すること
(この五感という知覚は現象界の支配者の使用し、起こされている錯覚であり、外部から与えられた幻想である)

本来の真我の感覚は全体であり普遍であり、全ての感覚を超越した知覚(現在の自分には認識不能)であるのに、
この個別的身体の感覚である、見ること、聞くこと、感じることなどの五感や知覚(二元性の根底)に錯覚させられていることに気がつかないこと

☆自分は他人とは別の個人である、この肉体や幽体や霊体を持ち使用している魂であると錯覚すること、個人は錯覚であり、従ってこの個人の存在を前提にしているこの個人という輪廻転生も錯覚である
(輪廻転生は現象界側から見れば、仮象として存続しているけど、この転生している想念の自我(エゴ)が本来の真我・わたしと合体したとき、輪廻の鎖とカルマの重荷は消滅する、転生を続けていた第1想念自我(エゴ)は解体し、絶滅し終焉を迎える、そして不死鳥のようにその終焉の中から全体としての永遠のパーソナリティーが新たに誕生するがそれは個ではない、全体としてである)

☆現象の自分に時々やってくる宇宙意識や真我の気づきを、
内部や外部からやってくるものと思うこと
(そのように錯覚する魂である主体こそが自我(エゴ)である、
たとえ実際に時々に「気づき」が、真我や神や宇宙意識がやってきても、
それを内部や外部からやってくると思っている、その主体が有る限り分離と二元性のなかにまだいると言えるのではないか、だからこそその「気づきの松明」を掲げて自我(エゴ)の根源に至ろうではないか。)

ラマナ・マハリシの有名な言葉

「瞑想してはならない …… 在りなさい!!

あなたは在ると考えてはいけない …… 在りなさい!!

在ることについて考えてはならない 
           …… あなたは在る!!! 






































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