■エゴを愛する
自分を愛せない人に、自己変革は訪れないとおもう。
愛があっても、
愛せなくても、
本当の愛でなくてもいい、
ともかく自分から愛を出そう、与えるのだ。
一人でも多くの人に。
求めてはいけない、ただ与えるのだ。
虚偽が真実の愛を駆逐するなどと言われてもいいのだ。
我々のレベルでは真実の愛でなくても、まず観念から、虚偽から始めるのだ。
その虚偽を全力で真実で行うのだ。
純粋な愛でなくても、不純な愛でもいい。
ともかく自分を捧げだして、その人が良くなるよう、幸せになるよう愛するのだ。
観念でもいい、エゴからでもいい、与えるのだ。
捧げるのだ。
そして
自分をも愛するのだ、
他人と同じように、そして自分の一番見たくない自分を愛するのだ。
エゴを愛するのだ!!。
エゴは何時もいる、自分は良くなったと思っていても、ある環境で、ある条件の時に、思わず、本来のエゴの自分が顔を出す
そして
それにびっくりして、
逃げようとする
無視する
それに振り回されて、飲み込まれ同一化してしまう、それから逃れるために。
または
それを超越しようとして、観察しようとする
それを滅ぼすために愛しようとする
それから
私はエゴも馬鹿ではないと思う。
エゴも他人の自己も、私の自己も同じだ、ただそれが特化しているのだ。
自分の病的な部分、追いやった部分がいるだけだ。
自分を分離して、対象にして、エゴだと思っているのだ。
だから、余計に愛情に不足しているのだ。
エゴも目をかけられ、きちんと見つめられることを期待しているのだ。
それを一刻も早く、それから逃れるため、嫌われ、悪魔のように思われている。
エゴは自分自身なのだ、見ている自分と全く同じなのだ、自分自身だ
逃げようにも逃げられない。
影から逃げられようか
受け入れるのだ
それを自分として
それが自分なのだ
その彼の言うことを聞いてみるがいい
彼又は彼女の言い分を全身全霊で、耳を傾けるのだ。
そして
愛するのだ
そうすれば
何かが起きる、起きてくる
無理にではない
ただただ愛するのではない
自分のもう一つの自分であるエゴにただ耳を傾けるのだ。
目を向けるのだ、じっくりと言い分を聞くのだ
それは私自身なのだ。
エゴは私自身だ。
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