Beingとbecoming
 実在と非実在


Beingとbecomingのことを
覚者たちはいつも指摘しておられる

「在ること」と「なること」である、この違いは決定的である、真実と嘘の違いであるからである

Beingとは在ること、実在していることであり、真実で在るに対して

becomingとは「なること」「なろうとすること」であり、虚偽であり、マーヤであり、時間であり、思考であり、嘘である

Beingとは「いまここ」であり、既に在る

becomingは特定の時間と空間を指している
というのもbecomingとは肉体との同一視をしているマインドのことなので、それが特定のこの身体の場所のことを
此処だと錯覚している
肉体のことを自分だと錯覚している「自我・マインド」が考えている此処というのが特定の場所のことで、それは決して
「今此処」の此処のことではない
その「記憶自我」の言う此処とはこの身体がいる部屋とか電車の中とか、喫茶店の中とかいう座標軸に縛られたここであり、
その座標軸を成立たらしめている空間そのものであるところの「此処・遍在」ではない
また今ということにしても、becomingは時間そのものなので、「今」というものを分割してしまい、過去現在未来というように
時間というものに分けてしか考えられないので
このマインドが考える今とは今ではなく、常に或る特定の0000年00月00日00時00分00秒というようにしか思考することが
できない、其れは今ではなく現在であり、その現在というその時間と云う概念とは、観念マインドであり、今を分離させてしまった
結果である
実際は何分何秒というような時間は計測の中にしか、即ち時を分割している思考と言う観念の中にしか存在していない
ただ其れが成立しているように見えるのは全人類が共通して、その分割しているマインドに占有されているからに過ぎない

Beingとは思考や時間ではないものであり、言葉や叙述され得ないものであるけれど、敢えて言えば
(悟っていない私が斯く言うことは非常に恐れ多く、僭越極まる偽善であることではあるけど)
それは存在であり、実在であり、意識であり、空間であり、愛であり、今此処であり、あるがままであり、「見るものは見ら
れるものである」であり、覚醒であり、悟りであり、真我であり、分離していないもの全体、分割できないもの=すべてであり
生まれていないもの、死滅していないもの、「主体と客体の非分離」、非思考・非対象であり、それは生であり死であるもの
全てのただひとつであるものであると思われる

それに対してbecomingとは
時間であるから「今此処」ではない無知である、常に時間とは〜になること、〜到ること、〜なることであり、なろうとするもの
であり、目を覚まさそうとするものであり、真我実現していないと思っているものであるもの、常になろう、進化しよう、良くなろう
として動き回っているもの、即ちマインドである、それは今此処に留まっていることが出来ないものである、
停止することのないものである
思考と言うものは停止していないものなのである。今此処に留まろうとせず、留まれないのである。それは常に動き回っている

私達にとって馴染みの深い言葉で言えば
真我を実現すること、「目を覚ますこと」、悟りを開くこと、ステイトが進化すること、真我が開花すること、神と一体になること
若しくは自我が開花して落花すること、自我が死滅すること、自我が終焉すること
また愛そのものとなり、全宇宙と融合すること、過去現在未来の全てを曉通すること
神と出会うこと、チャクラが全開になってクンダリーニが頭頂を抜けること、時間と空間の虚偽を悟ること
神とひとつとなること、宇宙と一体になること、身心が脱落すること、究極の体験をすること
思考が停止すること、覚醒すること等々であろう、
けれどもそれら全てには時間が介在しており、時間という無明の支配下にある、それは未来に焦点を合わせているのであり、
それは今でない
それらは記憶できており、分離しているので体験することができ、知覚でき、認識できる、自分の事だとして・・・
だからこそ其れは嘘なのである、二元という主体と客体の対立があるからである
そしてそれは、もっと巧妙になって、観念で思い込む方法で「私は既に今此処に在って、既に自分は真我である」などと想像する
ことであろう・・・それは幼稚である
それらは認識する主体というものを前提にしているのであり記憶であり、マインドであり、時間の生み出したものである嘘なのである

それこそがbecomingと言うものであり、そのbecomingの本質こそが根本の時間と云うもの、〜に到ろうとすること、
〜になろうとすることであり、マインドを生み出しているもの、即ちマーヤ・根本無明なのではないのか

この根本の嘘というものが、マーヤと言われているものであり、時間であり、空から出現している素粒子でもある


般若心経で説かれているように
悟ることも、悟らないことも、悟りに到らない迷いも、迷いが晴れて悟りに到ることも、マーヤという嘘が生み出したことに過ぎないのに
時間というものが、心マインドを使って、個人とか、悟るべき私、進化していく私などがいるのだという映像を見せつけているのでは
ないか
悟るべき私も、悟っていない私も、悟りを開く私も、悟りを開いていない私もいないのに其れらの私があるという虚偽の映像を
脳内で見せつけられて、其れを自分だと信じている「観念」もが、この両者共々が無明のシステムなのではないか
脳内の映像もその映像を見て自分が生きていると錯覚した「想念」も共に無明のシステムが支えているわけだ
その両者共に、その見る者も見られるものも、その主体と客体も共に根本の無明であり、無知というマーヤなのだということだ

「目を覚ましなさい!!」とは眠っている私を前提にしているのだ
眠っている私が私だと信じているからこそ、(そのようなマーヤであり無知であるからこそ)、その無知に対して目を覚ましなさい!!と
言うのだ、
けれども実際には目を覚ますべき私も、眠りこけている私も、目を覚まそうとしている私も私ではないというのに・・・・である
真実は目を覚ます私など何処にいるのであろうか、
目を覚ますべき私とは映像なのである!、其れは虚像である
その「目を覚ましなさい!!」こそがこのマーヤへの誘いなのである
悟ろうとすること、覚醒しようとすることとは根本無明の起こしている誘いであり、錯覚に引きづり込む方法である

このように覚醒しようとすること、真我実現しようとすることが最大のマーヤである、マーヤの働きである
覚醒している私とは、真我である私とは既に目を覚ましているのであって、覚醒しようとしたり実現しようとしたりはしないはずである
自我を終焉させようとすることも同じく「無知であるマーヤ」の働きなのであるから

実際には目を覚ますべき私などは何処にもなく
自我を終焉すべきその自我とは映像なのである

輪廻を超越しなさい、バルドの輪から脱しなさい、転生をしないように目を覚ましなさい!真我で在りなさい!なども同じように
輪廻を維持するためのマーヤからのものである、其れは「無知・根本無明」の誘いである

この点についてのことは般若心経で以てハッキリと言われている

生まれてきたこともなく、死んだことも一回もないのである、転生などしていないのである
過去の記憶を思い出してあそこに生まれた、此処で死んだと言うこと自体が、その記憶というものが肉体を自分だと思っている
肉体と同一視しているものである「私と言う観念」であることを証明している
即ちそれは「記憶の主体」であるものとは思考の凝集した、真我からの観念であり、それは実在の私ではないことを証明している

自分が肉体だと思っている観念が輪廻している記憶の主体なのであり、其れが色々と前世の記憶を持っているのである
この記憶が自身の継続を願い、更なる転生のサイクルを廻し続けて、進化という夢を創り上げているのである
いつかは成就する、いつかは神と一体になる、いつかは悟りを開いて真我となる・・という妄想を抱いているのである
その妄想も、妄想を抱いているものも存在していない観念であり、記憶に過ぎないのである
記憶や観念であるものは「あるがままの非思考の凝視」でもって消滅する、いや消滅すべき非実在に過ぎない

カルマも同じようにその継続を願う記憶・自我が共同して創り上げている虚像に過ぎないのではないか

だから悟ることもなく、悟らないこともなく
真我に到る段階もなく、真我に到らない段階もなく、
真我に到ることもなく、真我でないことは一度もなかったのだ
生まれたことも一度もなく、死んだことも一回もない
肉体を私だと思ったことは一回もなく
思う事や思考することや、感情や願望を抱いたことも一回もなく、ベットから目が醒めたり眠ったことも一回もない
思考、知覚、体験、認識、経験、判断、非難、逃避、感情、対象認識をしたことは一回もない
転生し、輪廻し、自他の分離をしている私、なろうとしている私は非存在である
その私はbecomingが生み出してるマトリックスである
そのbecomingは嘘である、映像である

それに反して
Beingとは存在であり、今此処に既に在り、在るのだと

求めることもなく、求めることをしないということもなく、そのBeingは既に「在る」、Beingしている其れが私だと

けれどbecomingとは
求めることをしたり、求めることをしないようにしていることである、其れがbecomingというものであり、
私達を虚偽の中に縛りつけるものである
真我実現しようとするものも、
私は真我であるとの観念で真我になろうとして、その真我という観念と一体化しているものも
becomingである
それらは私ではなく虚像である記憶の私である、無明がしているのである

本当の私はBeingであり、自由だと
真我実現しようとすることもなく、我は~成と思考することもなく、目を覚ますこともなく、目を覚まそうとすることもない
はずである、既に目が醒めているからである

以上の様に、いかにも悟ったように話す偽善の私のことを、「自分は悟っていない」のにと思っている私とは私ではないことだろう
かく言う私は勿論悟っていない、思考でありマインドの記憶でしかない
この書いている久保栄治には気づきもなく真我の体験もなく、経験もなく単なる概念で書いているだけであるけど・・・
・・・と、思っているところのこの認識も思考も虚偽の記憶の私が思っていることではある

「在る」が「なる」を支えているのだ・・・
Beingが在るからbecomingが映し出されているのだ・・・


クリシュナムルティー曰く
「なろうとすること、とは在ることを否定することだ」と
「良くなろうとすることは良きことの否定である」と









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