これからの歴史教育について


まもなく人類が新しい次元に突入し
そして,
これからの新しい地球の
子ども達に行う歴史教育について考えてみたい

歴史とは記録である
それは個人と人類の記録である


それを歴史学者と称する方々による
ある一定の伝承と単なる文字や物証や言葉による記録を歴史と言うのではなく、

私達は本当の記録を探り
本当の人類の歴史を学ぶ必要がある

その人類の歴史である記録は一体どこに記録されているのだろうか

まずそれを記録という点から考えてみよう
人類の記録とは言い換えれば
それは
人類とは多くの個人の集まりであるから
言い換えれば個人の歴史の集合であるとも言える

であるから人類の歴史とは
ある一定の時間を共にした一人一人の人間の個人の記録の集合であるといえる


その時代時代を私達はどのようにして過ごしていたのだろうか
それを記録即ち記憶として考えてみると

記憶は勿論、肉体の頭脳にもある
しかし肉体の頭脳にあるだけではないとおもう

それは体外体験でも明らかなことだ


そして死後も、その記憶は引き継がれていく、
肉体ではないサイキック体の生活に

そして
私達が再転生のサイクルにはいるとき
その記憶は
より高次のボディー(コーザル体)に収納されるといわれる
そして
サイキック界とノエティック界を後にしたとき
私達は
この物質界で、サイキック界で、ノエティック界でづっと続けて生きてきた人格と
本体達とは分離して

それらの界層で生きてきた人格は極わずかな記憶と共にワサナとなり
次の肉体を得られるかも知れない時がくるまで待機状態・休止状態に入っていくと言われている

個人である想念の塊であり感情や想念の傾向であったものはワサナとして切り離されるとき
記憶であるものはコーザル体に
そして本体達はそれらの低次のボディーと切り離されて

次の物質界での転生で学ぶことを決意し、再び
新たなる
受胎の時を迎える

この、これからのこの人生で学ぶべき事の設計図をたずさえ、カルマを背負い
今までの多くに渡る「人生」の成果であるコーザル体も、サイキック体もノエティック体も
そして肉体の種子も一緒にその母胎に入っていき形成され始める

とそのように普通は説明されている

これが
妊娠ということである

そして誕生を迎え
過去の私達であるワサナ達が太陽神経層にはいってくると言われている

では個人の記録は何処にあるのか

勿論
ごく一部は、肉体の頭脳に
そしてその記憶や記録の内、
低次の感情や、その癖のようなものはワサナに
全ての人生の偏らない客観的な記憶は記録体であるコーザル体に
そして更なる完全なる記憶は観照者であるものに
それぞれ記録されていると言われている

そしてその観照者の記録は

さらなる秩序にある人類全体の記録を統括している、
通称アカシャと言われている記録庫ともいわれている
惑星の・太陽系の銀河の記録庫に記録されているとも言われている

さらなるものも存在するらしいのであるけど、今此処では問題にしないで済みそうである

では話が元に戻って
これからのアッセション後の歴史教育である

今述べてきたように記録と言っても実に多くのレベルからのものであり

何処の視点から捉えるかで全く異なってしまう

それを人類の歴史という点から考えるとき
私達はそれをアカシックレコードなるところからの記録を
語ることが最も正しいと思える
何故ならそれは個人を全体の視点から、捉えた高次の意識からの記録であるからである

そして

いまアセッションを目前に控え
多くのソースから地球人類の歴史と称するもの
そして宇宙の歴史と称するものが
アカシックレコードからとして
明らかにされていると、色んな情報が氾濫している

しかし、此処で注意が必要だ

それが本当にそうなのか
それで良いのか
このような単なる情報や知識で
私達はそのアカシックレコードというものに触れることが出来るのか

アカシックレコードとは
私達が個人の人格ではなく、私達のより高次の意識によってのみアクセスできるように
記録されている
と言われている
それは
この現在の地球人類の意識の特徴であるところの、
分離意識、二元性意識では参入できない、アクセスできない


何故なら、その記録は、人類が一つであり、「私が貴方である」という、自他の分離の全くない意識レベルにおいて
そのような意識レベルの状態の中でのものによって(或る素材によって)記録されているからであり
私達のこのアクセスできる素材ではないものによって
記録されて、存在しているからである、と言われている

ここが重要である
そのアカシックレコードは
人類が一つであり、「私が貴方である」という、自他の分離の全くない意識レベルによってのみ判読できる

此処にアクセスし
そしてそこから学ぶためには
同じレベルであることが必要である

この地球で起きたこと
この宇宙で起きたことは

ここにも記録されているのだとしたら

それを読むためには
その起きたことを認識するためには

情報や知識という
この人類のマインドのレベルの伝達方法ではなく

気づきのレベルに私達が参入していることが絶対条件である
それは本や情報や知識という方法ではなく
恐らく絶対なる沈黙という方法でしか接近できないのではないか

その状態とは
あらゆるものは「私」そのものであり
その宇宙のあらゆる
勢力も、人々も、神々も、起きたことも
全て
私の中で起きている
というレベルまで

私の内で起きて起きている
という真我の覚醒が必要であると思う

そのような自覚が、実感がまず大前提である
その宇宙で起きたことは「私」以外の出来事ではない

それは「私」自身である

その敵も、味方も、神々も悪魔も、天使やブラック達も
全て「私」そのものである

「私」の中にその宇宙の出来事はあり

「私」とそれは分離していない
「見るものは見られるものである」
この真我のレベルに達していることが必要だと思う

これを
この宇宙の創生からの歴史を
自分以外の歴史と見るとき
間違った歴史認識となってしまう

「見るものは見られるものである」
この
見ている自分と見られているは分離していない
即ち
宇宙の歴史を見ている「私」は
悪魔や神々とは分離していない
見ている自分は即、即ち悪魔であり、ブラックであり神々であり天使なのだ
と言う善悪を超越した次元
愛の次元
非二元性の次元とその意識

なのに、そのアカシックレコードを
間違って解釈して
何か時間軸の中で、過去や未来の出来事のように
起こったことのように、起こることのように解釈していることこそ

地球の想念帯であるマインドの思考に過ぎない
それらのマインドに操られて
作り出した、否、正確に言えば作り出されたこの地球人類の記録、宇宙人類の記録は

その記録は私達のではない


翻って考えると
この現在の今のレベルの人類の私達はマインドの結果であろうか
このマインドによって作られたこの私達地球人類や宇宙人類はマインドの結果である
そうともいえる

しかし
「私」は違う
真我はそうではない、と覚者達は言っているはないか

従って
この宇宙の歴史というものは真我という「私」の歴史ではない
「私」には歴史もなく記録もない

と言われている

なぜなら生まれてもなく、死ぬこともなく
現象界にいたこともなく
そもそも「私」は個人ではなく、全体であるため

個人の集合としての記録はありえない
従って、そのアカシックレコードは至高なる、聖なる催眠の記録であるとも言える
地球人類と宇宙人類達が個人があるという催眠から起こった出来事の記録である
そういえるのではないか

覚者は言われる
この現象界は幻想である

過去は「今」であり
未来は「今」であり

宇宙の全ての
始まりは「今」であり
そして終焉も「今」であり
全ては「今」にあると

其処のレベルに私達の人類が到達し
そして
これからの子ども達の教育は
ここから行われるとしたら
アセッションを迎え、通過して
次元の上昇した時代の子供の歴史教育は

このアカシックレコード
即ち

過去も現在も今であり

宇宙の始まりも終焉も今であり
この宇宙は
この現象界は

初めから夢であったこと

その事を
教育すること
それが歴史教育である
とそのように思われる

ではこれを担当し、実際に教育を行うのは誰か

上江洲義秀先生は以下のように言われている

次元上昇した地球の教育は

学校では行われない
それは
真我によって行われると

子ども達は
全く自他の分離の存在しない「気づき」の意識状態の中

現象界の歴史を自分の中の出来事として
宇宙の創生から終焉までもの出来事を
アカシックレコードから学ぶことができるであろう、と

私の中で進行している
真我ではない現象界の出来事として、学ぶであろうと

ニサルガダッタ・マハラジはこのように言っている
「外部は内部である、そして内部は外部である」

現象界の全ての出来事は
この宇宙の歴史は
分離されない非二元性の中で、私の中でのアカシックレコードにおいてそれは発見できる
私の中に起きていることとして

そしてそれらの宇宙の全ては、宇宙の全ての出来事は
現象界の出来事であり
真我ではない
真の私は生まれず、死なず、輪廻転生していない

永遠なるものは
現象界ではない
従って
その外部の宇宙の出来事は私ではない

私は時間を超越している

始まりもなく
終わりもないもの

それが真我であり

それが

これからの歴史教育を司るのである

と、そのように上江洲義秀先生は言われる










































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