「一人でも多くの人に真理を伝える」ということは可能か
「一人でも多くの人に真理を伝える」または「一人でも多くの人にこの福音又は事実を伝える」為に
今までに歴史上数多くの宗教や団体・組織が集会を開き、組織してその真理や真実を伝えようとしてきた
その為に布教や勧誘や果ては戦争までもが行われた
そのことで
先日上江洲義秀先生の会合であまりにも参加者が少ないので、古くからいる人に尋ねてみた
その古くからいるかたの返事は
その方は「何故、あなたは人を集めようとするのですか」であった
何故私は人を集めようとするのであろうか
私は逆に自問自答した
そもそも
この真理というものは知識や言葉で伝えられる性質のものであろうか
この今の人類にとっての伝達の可能なものは知識や概念や理論や観念、情報である
勿論、真理にとってはそのようなものは媒体になり得ない
また今の人類にとって、現状とは、
進化の段階における実情とは
私達が求めているものは欲望の満足であり、真理ではないということだ、
(真理とは既知ではなく未知そのものなのだ)
それを伝達可能な真理とか神とか真実と言葉で思っているにすぎない、
私達人類は神とか真理を求めていると自分を美化しているに過ぎない、
神を礼拝し、真理に帰依していると錯覚しているのは、
自分の為に、自分の或る欲望の実現の為に利用しているに過ぎない
即ちそれが悟りであっても、
家を建てることであっても、
彼・彼女を得ることであっても、
要は自分の欲望を満足するために、
その為にその礼拝の対象を利用しようとしているに過ぎない、
その対象を搾取しようとしているに過ぎない。
それは私達が他人も目を意識するという
日常ありふれた行為の中にも同じマインドの作用がここでも働いている、
他人の目を意識するとは、
自分の人格を作り上げること、
即ち他人の目に合わせて自分の人格という仮面を被ることに他ならない、
そこで働いているのはその他人から良い印象を得ようとして、その他人を搾取しようとしていることである、
勿論その相手の目を意識しているとき、
自分はその相手を愛しているのではない、
私の中にはその相手から良い印象を得ようとする、搾取・奪取のマインドが動いている。
実は自分を見ている相手自身はことはそのとき、自分にとって存在していない。
だからその相手の状態やその相手の置かれている肉体的、
精神的、内面的、経済的な状況やその具体的な感情や苦しみは一切関係ないし
実は無関心なのだ
だから私達がその相手の目を気にしているとき(自己関心に陥っているとき)、
本当にはその相手のことは無関心なのだと思う
逆に、私達がその相手の内面と肉体的、感情的経済的な苦しみを
一緒に感じているとき、無関心ではないとき
自分はその相手の目を気にしていない
その他人という相手の目を気にしているとき私達は自己関心に陥り、
他人に無関心なのだ、
だから本当の意味で他人に関心を抱いた場合、自己関心は存在しない
この状態は即ち「自己を忘れる」という段階に至ったとも言える
今現在の人類の意識状態は、この自己関心に捕らわれている、
そしてこの自己関心の対象が他人という人間ではない場合、
その意識の根本状態の無関心が地球の自然や他の動物に向けられて、
それは奪取し搾取する対象になってしまう
そして
地球の資源を奪取する文明が進歩した
いま地球の化石燃料は枯渇しかかっている、
それもこの地球という相手を搾取する自己関心の機構が根本の原因であるとおもわれる、
二元性のマインドである
さて
話を元に戻して、
一人でも多くの人に真理を伝えられるかという事であるが
それは勿論可能ではない
この人類の今のレベルでは、
頭脳がそのように条件付けられているので、
真理を与えられても、それを理解し認識すること出来ない。
認識し伝達できる濾過器の装置が機能していないのだ
認識する肉体的、霊的な頭脳が条件付けられているため、
その真理を曲解して意識に伝えてしまうのだ、
即ち条件付けの結果、自分の欲望の満足に必ず利用してしまう、
それは神や信仰が自分の欲望の満足に利用されているのと全く同じだと思う
二元性しか働かなく、
自分の認識が、理解がマインドの領域でしか働かない
この今の人類に取って「一人でも多くの人に真理を伝える」
または「一人でも多くの人に、この真理・福音又は事実を伝える」ことをしたくても、
受け取る器が準備されていないのが今の人類の段階である
一人でも多くの人に真理を伝えたくても真理は伝えられないのである
真理は情報や知識や概念では伝わらない・伝えることは出来ない、
それらはその伝達媒体ではない
真理は信仰や祈りでは伝わらない・伝えることは出来ない、
それらはその伝達媒体ではない
真理は真理にのみ伝わる
受信と送信が同じ周波数レベルにおいてのみ伝達が可能である
そこには
思考のマインド意識を超えた気づきの意識が
分離の意識でなく統合の非二元性の意識が
目覚めている必要が有る
この意識が必須である
この状況を作り出す
学びの場は20名前後がベスト状況である
とその友人は言った
この学びの場に来るべき人は必ず来る
とその友人は言った
内面に於いては
内側の光が輝き出せば
その内側に付着したマインドはよりハッキリと映し出されるであろう、
よりハッキリと認識できるだろう
だから
その内側の光がより輝き出すこと
それが肝要だと
この状況、この学びの場は
その内側の光がより輝き出すことに目的が置かれている
それが有る臨界点を超えたとき
何かが
起こるのかもしれない
それには
或る未知のエネルギーが関与しているのかも知れない
未知のエネルギーが私達の「真我の探求」を促進し、それを成就するために
(より多くの人に伝えようとしてもマインドにて必ず曲解される真理を)
真に確実に伝えるためには
「真我の探求」を真剣にワークしている場が必要だと言うことだろうか
その場の中に於いて、少人数のグループの中においてのみ
深化と沈潜化が促進されるのかも知れない
ここでかつてのグルジェフが言った言葉が思い出される
真理とはダイヤモンドの様なものだ
この地球には一定の埋蔵量しか存在しない、
と
この真理は多くの人に伝えられたくとも、伝達が不可能なのはよく分かるし、
いまの人類が本当は求めていないこともよく分かる、
そして今の条件付けられた頭脳とマインドではそれを理解できないので
必ず知識や情報のようにマインドの領域に貶められていますこともよく分かる
しかし
それでも
私はこのダイヤモンドの輝きを人類全員で享受したいとおもう
それとも
それは、その性質上、禅宗のようにただ一人の開悟者から一人への開悟者へと真理が伝達されていくように、
大衆化した場合は薄まり変質してしまうものなのであろうか
大衆化してその真理が全く真理でないものに変質するよりは、
その輝きを必ず伝達できるよう、
少人数のグループにおいて深化と沈潜化を促進して、成就することがその方法なのであろうか