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時間は敵である



これはクリシュナムルティー自身が認めている彼の誇張した表現である
けれども、つくづく時間は敵かもと思う

では時間とは何か

私ではないものを、私と錯覚しているものが「私という現在意識」であり、本当の私を覆っているもの、それが即ち「私だと思っている意識」であり「時間であるマインド」である。

(それでは本当の私とは、その私でないものを「見るものは見られるものである」と見、「分離していない目」でもって受動的に凝視している「目」それ自体であると推測される)

そういうことであるので、現在のこの「既知であり意識している私」とは、果たして私だろうか。
(この五感を自分の感覚だと思い込んでいる「マインド゙である私」のことを指している)

私と思っているマインドである意識・時間がこの「既知であり意識している私」の私の本質であろう。

その根源的な分離している時間が、この時間である自分自身が、この肉体と自己同一化し、感覚と同一化して、「私は肉体であり、個人であり人格だ」と思い込んでいるということであろうか

これを読んでいるあなたも、そしてこれを書いている私も(現在の私や貴方は)、
私や貴方だと漠然と思っているだけで、
真実とは、それらの自分とは、本当の自分に覆い被っている「時間であるマインド」ではないのか、
そのマインドの意識活動を自分の意識活動だと思い込み、その自分を自分の意識だと思い込んでいるだけではないのか。

この「既知であり意識している私」とは、頭脳を経由した「マインド゙の記憶と反応」の意識でしかないのではないか

この私や貴方の現在の意識とは、実は私ではなく、貴方でもない、(「真の私は貴方だ」と云われている、「私とあなた」に分離できないと言われている)

私や貴方の目に覆い被っている時間であるマインドが「このマインドの分離意識」自体を主体と客体に分けているのだ。
マインド自体が分離意識であり。その中身は時間だということではないだろうか。

その「マインド・時間・分離性」が作りだした私や貴方という個人の意識・人格・個性、
さらにはその作られた「個人の記憶の過去現在未来」という意識を本当の自分の意識と取り違えているのではないか

私の意識とは記憶ではないのではないだろうか、

記憶とはマインドがこの肉体を自分だと錯覚して、この頭脳に起こった(やってきた)思考や感情を「記録している記憶」そのものではないだろうか、

だから記憶が作りだしている人格や個人である「自我(エゴ)としての私」は私ではないのだ、記憶凝縮体が私だと詐称しているのだ。



私の現在意識とは私を詐称する記憶だとしたら、その特色とは何だろうか、「既知であり意識している私」の特色とは何か

それは目的を持って、行為しているもの、起きている行為を自分がしていると錯覚しているものである

そして、自分を反省し、良くなろうと努力し、超克しようとしたり、愛など全くないのに(自他の分離であるマインドにどこに愛があるというのだろうか)愛さなくてはと一生懸命に祈ったり、信仰し、神に帰依して自己改善しようとしたり、自我を終焉しようとしたりする、

また永い輪廻の末に、必ず神に至るのだと瞑想し、宇宙意識、真の私である「気づき」に至ろうとして、色々と神秘体験や至高体験を重ねて、ますます自己という錯覚を肥大させ、自我の桎梏から抜け出せなくなったりし、

救済すべき世界は自己と別の対象である客観外部世界に有る、と信じ込み、外側に働きかけて○○○したり

内部と外部の分離という錯覚の果てに、実は内部である世界なのに、世界を外部にあると思い込み、自分が愛を与えようとして、その愛を与える実践(??!!)をしている私、
(本当の愛の中には私やあなた、内部や外部、主体や客体、見るものと見られるもの、自己と世界という区別や分離が実際にはあるのだろうか)

さらに意識の変革を願って、色々と求道模索し、知識と経験を漁り、果てには「この私が神である」と信じ込んでいる「既知であり意識している私」こそが、
この私を詐称している時間が生み出した幻想であり
マインドという二元性の記憶物であり、

それは絶対に本当の私ではない。

もし、本当の私であるのなら、過去現在未来という時間感覚(時間の特性である、〜になろうとすること、神に至ろうとすること)を持つだろうか、そのような思考を持って将来の事を考えたり、過去のことでも自分が行為したと思い込んで罪悪感をもったりするであろうか。

また「将来には、かならずや真我実現するだろう」と思うだろうか、そのような、招来という「今」以外の観念を持つだろうか、
真我はいまここに、この私、「既知であり意識している私」のあるががままの恐怖や不安を、あるがままに見ることの中にこそ在るのではないのか

そのような過去現在未来という時間のことを思うこと自体が本当の私ではないことを暴露している

本当の私とは、真我である自分に至ろうとして、必死に瞑想などするだろうか、瞑想は起こると言われているのに

そのような「今」以外の観念に捕らわれて修行や瞑想をしているこれらの私の本質というものを、非難することなく「見るものは見られるものである」として、「私自身であるとして」凝視することが、変革をもたらす沈黙への入り口となるのではないだろうか

このあるがままをあるがままに受動的に凝視している私とは、果たして将来の事を不安に思い、過去に思いを馳せ、悩んだり、案じたりするだろうか、このように過去に戻ったり、将来に行ったりして、あるがままをなおざりにするだろうか、そのような「今」以外の時間観念を持つだろうか、そのような錯覚をすること自体が本当の私では無いことを暴露している

本当の私とは、「既知であり意識している私」にとっては未知なるものであるが、このあるがままを思考を使わずに凝視する自己観察を通じて、沈黙の中へ自己が弱体化し、解消されることによって(自己が失われていくことによって)発現してくるのかもしれない

自我の死なくして、本当の私は在ることはない、自己が完全に死滅したとき、そのときこそが本当の私の復活であるとは、昔から言われていることである

〜になること、〜に至ること、〜を実現すること等の動機と目的を持って、瞑想したり、講習会に参加したり、グルに従ったりすることは


それらは全て時間であるマインドが自分を詐称しているのだ、私とはそのような断片ではない、分離していない、そのような記憶ではない、そのような時間である意識は断じて私では無い、私とは観察者ではなく、この観察者を凝視している「目」である


この現在の顕在意識は(現在意識は)私ではない


頭脳を占拠したマインドが、条件付けられた頭脳と同調し、魂の表面を覆い尽くして、魂がその意識を私だと錯覚しているのだ

私とは第1想念である魂であって、これらの観察者である(観察者を思考なく観照している観照者ではない)

私の大元は観照者という真の私である。と信じて推測している。
(久保栄治は勿論この段階でもなく、あくまで推測で頭だけで書いていることをはっきりとさせたい)


私はこれらの私である第1想念である魂を、この真我からの想念とは何なのかを、あるがまま自己凝視したい、私は「見るものは見られるものである」の道が解放であることを固く信じているからである。

この記憶の私・「自我(エゴ)としての私」は、魂の私では絶対ない

さらにこの魂の私を、超えて真の私であるならば

「思う」という思考の働きすらもないことだろう

「知る」と云う主体と客体の分離もないことだろう

「信じる」と云う事実の状態である中にはない「思考の働き」(即ち、信じると言うこと)であることもないことだろう

「よく成ろう」、「到達しよう」、「実現しよう」という時間の支配下にある意識(即ち願望)はさらさらにないことだろう

「体験する、経験する」という自己とその自己を観察する分離はないことだろう

「これらに気がついていると言う観察者である意識」である客観的意識状態はないことだろう

そして

ただただ「全ては一つ」、「私は貴方、貴方は私」、「我はそれ」「私は存在する」という非分離・非二元の気づきであってこの気づきの普遍意識で在る事だろう(と久保栄治は推測している)


それは在る、在る

全ては一つという状態、それは「自身を神と意識していない」神の状態であることだろう、それこそが私であると

多くの覚者の方々は示しておられる


それは起こる

沈黙の中に起こると言われている

私たちは何処にも行かなくても良いのではないだろうか

何にも成らなくて良いのではないだろうか

何も為さなくて良いのではないだろうか、

ただただ

このあるがままを、あるがままに見る事が本当の答えではないだろうか


この葛藤と苦しみと不安と恐怖のあるがままを非難せず、逃避せず

その中に入ってみること、

その恐怖と、不安と、苦しみと、葛藤を分離無く見きったとき、その恐怖が私自身であり「見るものは見られるものである」ことが起こる、と教えられている。

そこに最大の真の奇跡が出現するとも云われている。

それこそが

真の私であり、言葉で表現できないもの、言葉を超えているもの、想像できないもの、推測できないもの、思う事を超え時間を超えているもの、このマインドの領域のものである知識や思考や体験や時間では触れることの出来ないもの

ただ一つであるもの、時間と空間を超え、愛そのものであるもの、

それは求めず、至らないとき、ならないとき、そしてあるがままをあるがままに凝視続けることの

沈黙の奥深くに

元の始めから此処にそっと在ったと言われております



その状態をクリシュナムルティーは言います

私が完全にいないとき、それが神です

私が完全にいないとき、それが愛です。と

そしてその神とは、愛とは
このあるがままであり、この恐怖であり、不安であり、苦しみであり、葛藤であり
(これらから逃避するとき、〜に至ろうとする動機や目的を持ち良くなろうとしたり、改善しようとしたり、神であると思考で想像したり、神に至ろうとするのです、と)

逃避せず、その中に、あるがままを自分自身として、更に全体として凝視するとき

そして

それを観察している主体こそが客体であるとき、(「見るものは見られるものである」とき)

そこに大いなる沈黙が訪れる可能性があるのですと多くの覚者によって云われております


良く世間で言われている
「波動を整えて神に波動を合わせる」などとは、全く持って間違っているのでないでしょうか
波動を合わすことの出来るものは神ではなく、それは偽の私たちの自身であり、私たちの欲望です。

それは神ではありません、至高なるものは計測できる波動を超えているものです。

波動を合わそうとしている私達自体が、実は初めから存在していなかったということを知ることが起こる事が必要なのではありませんか

従って
私達がいる限りは
神はなく、愛もありません

本当の私もありません

と教えられております