何故、私は知識を集めるのか、本を読むのか
私達は何故、本を読むのか
その読むことで、その本が自分の権威になっていないだろうか
いかなるものも、いかなる事も権威に受け入れてはならないのではないか
私は、その本に依存していないだろうか
その本に書かれていることの実体験ではなく、それを単なる情報や知識として知ることは、
逆に、それの指し示す「愛」を、「神」を、「全体」を実感することから、
徐々に遠ざかっていくのではないだろうか
またその本を読む動機は何だろうか、
何故、読むのか、
それは真理の探究なのか
この真理の探究という言葉の奥に「自分が究極の者になる」という
最も忌むべき自我(エゴ)の欲望が潜んではいないだろうか
これは、講習会やワークショップに参加したり、
指導を受けたりする動機でもある、
が、しかし
それは不純であり、自我の最も根深い欲望ではないだろうか
「自我が悟るため」に本を読むと言うことは、
これこそ自我の欲望ではないか、自我の究極の欲望が「自我が権威」を持つことである
悟りへの欲望は自我(エゴ)から出ているのである
真の私は既に悟っているのである
知識欲は「〜なる」という、自我(エゴ)からの欲望である
「良くなろう」とすることは時間である自我(エゴ)の欲望である
それは、時間を含んでいる
それでは自分は何故、知識を集め、知ろうとするのか、「〜なる」とするのか
これは「在ること」からの逃避ではないのか
「在ること」から逃避の手段として、知識を求めているのだ
自分は何故、本を読み、そこから汲み出そうとするのか
知ろうとし、得ようとするのか
その本を読む動機は何なのか
誰が何のために、何故読むのか
私は本日、上江洲義秀先生からそのことを指摘され、ハット気がついた
真理は、
愛は、
神は、
ここに、
このハートに既に在るというのに、
何故、それを知識や情報や本やグルに求めるのか
真理はこのハートに
愛はこのハートに
神はこのハートに
在るというのに
何故それを外部に求めるのか、本に求めるのか、外部の教師に求めるのか
私は今まで、クリシュナムルティーの「あるがままにあるがままを見る」と言うことは不可能なことだと信じ込んでいた
しかし
それは違う、
彼は、決して不可能なことを言っているのではないのだ
ただ、非常に繊細で、注意深く行うことが求められるのだ
それが、「あるがままにあるがままを見る」という自己観察であり
高等思考による(気づきではないが)ワークであり
これを純粋思考(マインド)による自己想起、又は自己留意と言うべきワークである
即ち精神を集中させるのではなくて
全てを同時に注意している状態
全てに同時に気がつこうとしている状態
受動的に、そして極度の静けさの中で、中心点を持たずに焦点を合わせずに、凝視している状態
全託していて、思考を働かせないで、ただあるがままを注意している状態
来るものを拒まず、去るものを追わない、受動的な愛情そして静観
全てを同時に気づいて、今の瞬間に在るようにする観察
これは観察者のいない観察とも言われている
この凝視の中で、徐々にこのワークは自動的になり
この純粋思考(これもマインドのうちではあるけど)が
沈黙の中から
気づきへと拡がっていくと言われている
私は、これが決して人類にとって不可能なことではなく、
可能な「純粋思考による観察ということ」である事が分かった
今までクリシュナムルティーは、人類に不可能なことを求めている、と思っていたがそうではなかった
静かに、ただ全的に注意している中で
非難せず、判断せず、選択せず、逃げず、追わず、一体化せず、拒否せず、争わず、戦わず
超越しようとせず、受け入れず、自己同一化せず、
ただただ「あるがままにあるがままを見る」、
この中に「ただ在る」こと
自我(エゴ)の狡猾な「自他の分離」、「時間」、「外部と内部の区別」などを受け入れずに
沈黙として在ることが
私達の道である
と、そのように上江洲義秀先生から教えられた