虚偽を虚偽と否定することが真理を肯定することである、接近することである
否定的接近は最大に近づくことである 肯定的接近は最大に遠ざかることである 真の私を肯定することは、真の私ではないもの、即ちこの既知なる私を、真の私ではないとハッキリと見ることである 否定することが肯定することである 肯定することは否定することである 真の私ではないものを真の私ではない、と否定することが、真の私を肯定することであり、接近することである 私は神である、真我であると、考えることは観念の中に迷い込むことである、神と真の私、真我から遠ざかることである 私はワンネスであると思うことは概念の中に捕らわれることである 真のワンネスから遠ざかることである 神も、ワンネスも、真我も,それを考えること、思うこととは、正反対のなかにある 未知なるもの、言葉では伝わらないもの、それは 考えないこと(無思考)、思わないこと(沈黙・静寂)の中にある 考えられないもの、思うことのできないものの中にある、未知なるものである、それはやってくるものであり 招き寄せたり、ビジネスにしたり、スピチュアルビジネスにすることの出来ないものである それは私たちの未知なる領域からやってくるものである 考えること、思うことはマインドの思考状態であり、それは常に動いており、悲しみ苦しみであり、分離しており、それこそが偽りの私そのものである そのマインドがないとき、其処に沈黙があり、其処に意識が現れると教えられている その意識こそが 神であり、真我であり、ワンネスである それは思考ではない、マインドではない だから 私ではないものを、私ではないとハッキリと見ることが、本当に真の私に近づくことである 意識でないものである思考を、既知なる私を、これは意識ではない、これは私ではない、これは思考であるとハッキリと見ることが意識に接近することである 虚偽を虚偽とハッキリと見ることが真理の働きである、真理に近づくことである 存在していない自我を、存在していないとハッキリと見ることが、真の私に近づく路である 見るものは見られるものであることを見ることが正見であり、 自分が見ていないことをハッキリと見ることが、その見ること即ち正見に近づくことである 存在していないものを、存在していない、と見ることが、存在しているものに接近することであり 肯定的に近づくことは、それから遠ざかることである 外部は内部である (対象の世界も、それを見ている自分も、内部であるマインドの投影である) 内部は外部なるものである (マインドがマインドを投影して、自分と世界を投影しているのだ) だから 内部は外部であり、それは私ではない、意識ではない 従ってこの知覚し、知覚される既知なる私は、外部である そして この知覚し、知覚される既知なる私は、錯覚である、私は存在しない、 それは 思考であり、マインドであり、意識ではない、真の私ではない この既知なる私は「I AM THAT」ではない この既知なる私であるマインドは、闇である。光ではない、意識ではない、全体ではない このマインドの闇をマインドの闇と見ることがのみ光をもたらす マインドの闇が見る光は光ではなく、光を装った闇に過ぎない と、そのように多くの覚者によって教えられている |