わたしという錯覚


覚者は言われる

主体・わたしという錯覚は、また客体・あなたという錯覚でもあると

主体・わたしという錯覚が、脱落したときには、また客体・あなたという、これまた対象であるものも脱落するのであろう

そこには自他の分離という錯覚がないことだろう、私とあなたはひとつであることだろう

そこには真実なるものが顕現していることだろう




私という「主体なるもの」というところの自己感覚とは錯覚であり、

根源がこの主体という感覚を使って生きているのだ、現象界に於いて自らを表現しているのであると

現象界という輪廻転生のシステムは根源が投影している映像でしかないのだろう

個別性のある私やあなたは何処にもいないのである、それは聖なる嘘であると



私とは何もしていない、と言われる



私とは何もする事もないし、今後何かをする事も出来ないし、かって今までに何もしたことはない、私がいないからだ

今までも、これからも何もしていないし、何も出来ないし、何もしていない

何かをし、何かを行い、何かをしてきたのは私ではなく、聖なる貴方でありそれは根源である

聖なる貴方が全人類のこの頭脳をつかって映像を投影しているのだ

私もあなたもいない、聖なる根源が個々の肉体を使って演技しているのだ、私としてあなたとして


わたしは何も思うことはしていないし、考えることもしてはいない


わたしは何も思えないし考えられないし、考えたり思ったこともない

思う事、思索すること、思考している事そしてその思考の中身、思索の中身、観念の中身自体も私には関係してない

それらは全てが、根源がこの個体の頭脳と精神身体機構を使ってしていることである



わたしは何も感じていないし知覚していない

わたしは何も感じていないし、感じたり知覚したこともない

知覚と感覚とは根源がこの個別的なる肉体という精神身体機構を使って知覚し、感じていることだ


これらのことは単純に見れば直ぐ分かることだ

この肉体に於いてすら、基本的な呼吸や循環系や消化系にしても、また複雑なる運動系にしても、

すなわち自律系にしても体制系神経にしても、肉体の動作や認識や知覚や思考や感情という事は

非常に多くの細胞や神経が複雑なる頭脳と協働し、遺伝子がコントロールし、かつ整然と統一が取れた環境下に於いて

のみ初めて出現することができていることであって、この頭脳の複雑きわまりないシステムを創造し、維持し、そして老化と、

死亡というプロセスを見るだけでも、

ここには何らこの自己意識という記憶である「自我」なるものは関与していないことは明白である

自我である私の能力を全く凌駕している最高度の叡智が頭脳と身体には働いているのである


このようによくみればわかるように、私と言うこの自意識、この主体、この自我は、この頭脳という複雑なるプロセスの

結果であるところの「行為」や、「思考」や、「感情」や、「知覚」や、「認識」や「体験」といったことには全く何ら関与していない

ことは明らかである

これよりさらに複雑なるこの悟性や空間認識や、時間認識、そして抽象思考や、高等なる頭脳の作業にしても同じ事が言える


知覚や思考や感覚というものは、途方もない複雑な頭脳とDNAのプロセスを経過し

あらゆる細胞と神経系が一糸乱れずに協調した結果、その成果として、出現したものである。この人格が生み出せるものではない

言い方を変えれば条件付けられた、頭脳のニューロンとその結合の複雑な作業の結果生じているのが

この知覚であり、この思考であり、この欲望であり、そしてそれらのその記憶としての自我が生じているのである

自我とはこの高等なプロセスが生みだした思考の記憶であり、それはこの人格に出来ることではない

自我とは創造者の最高傑作ではないだろうか、

だからこの自我・私とは現象界の結果であり、真の私とは全く関係していないのである

真の私から言えば、それは現象界の被創造物であり、現象界のものは高次元には存在していないように

それは究極的には存在していないのである、

現象界のプロセスの結果であるものはマーヤであり幻なのだ


だから、「今ここ」という究極の現実には私と言うようなものは何処にも存在していない

欲望ひとつとってみても

到底、この主体という自我には引き起こすことなど不可能である、自分の欲望、自分の願いだと信じているだけだ

複雑きわまりないDNA指揮のもと頭脳の機能と自律系とホルモン系統の協調とその合同作業の結果生じているのが

欲望であり、この憎しみであり、この恐怖であり、不安であり、努力でありこの知覚や思考や感情であるのだ


そしてこの根源の最も素晴らしい成果とは、この無限とも言うべき複雑きわまりない過程を経て生じてきたのが

この主体という自我の感覚であり私と言う、自我である。


これこそがこの現象界という物語を、映像を、映画を成立させているロボットであるものだ。

自分が生きているとの錯覚をしている主体という感覚を持ち、自分が行為し、考え、知覚し、恐怖していると思い込んでいる

ロボットが、この現象界という幻を維持するためにはどうしても必要なのである

今後人類が更に進歩した場合でもこの様な自己意識を持ち、自我意識を持って、思考しているロボットを

自分が行為している、私が生きていると錯覚することが出来るほどの精妙なるロボットを造ることは難しいのではないか


なので本当には

私もあなたも、行為していないし、思考もしていない、

私・自我とは行為し思考していると錯覚するように造られている根源のロボットである

それは一台一台のPCにあるゲームソフト上に登場する主人公のようなものである

このバーチャルなPCのゲームで活躍する主人公はPCと基本ソフトが生みだした仮想現実でしかないのだ


この事を知って何も自暴自棄になったり、虚無的になることもないのだ



その自暴自棄になることも、やけくそになることも、そして虚無的になって、これを拒絶することも

何ら私やあなたとは関係していない

この様な間違った反応や思考や行為も根源プログラムが引き起こしている結果であるに過ぎないからである


現象界とは根源がDNAやプログラムを使って思考し、行為し、欲望し、感覚し、生きているのだ、演技しているのだ

この現象界とは畢竟キリストが言われたように「この世の國は私の國ではない」のだ

この現象界自体が虚偽であり幻なのだからだ、

真実を真実と見ることだ


何処にもわたしや、あなたという主体や自己や自我は介在していないし、また関与してもいない、

わたしなる自我は虚像なのだ、人格や個人とは結果であるものが引き起こしている虚偽の自己感覚である


ロボットであるものが必然的に引き起こしている感覚が、この主体という客体と分離している自我の感覚である、それが

「見るものは見られるものである」にもかかわらず見る者と見られるものは別だと思うのである、それが錯覚の本体である


わたしやあなたが分離していると思うことは、仕組まれていることであり、またこれに拒絶反応を起こすことも仕組まれている

この仕組まれていることはDNAでありプログラムであり、個人や人格には関与していない、根源が引き起こしている

聖なる幻覚なのだ

この過程に於いては何ら自由はなく、自由意志もなく、自由なる行為も存在してない


個人や人格こそが根源自身の結果であり、根源の物語の登場人物であり、映画の中の主役なのであり、映像なのである

それらの映像は真の私ではない

真の私は結果ではない、未知なる私であり、時間の中ではなく今ここに在るものだと







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