マインドこそが私と他人という分離生み出しているものである
(「この私」とはマインドの作りだした記憶だ)
頭脳を経由し、やってきたこの思考・マインド
この思考の中身とは何だろうか
それは、「この私」という―自己感覚、 肉体感覚―を伴った搾小された意識であり記憶の塊である
「この私」、とは、いまこれを読んでいる貴方の現在の私、これを書いている現在の私でもある、「この私」の意識そのものである
「この私」の意識が、いまのところは「この現在意識」そのものである、
「この私」とは記憶に過ぎず、その記憶の作用なのだ
これがいわゆる一般で言われているマインドであり、その中身である
マインドと通常呼称されている、この私の意識とは、
この肉体や身体と自己同一視したマインド・心の結果であり、記憶の集合物である
この記憶の中身とその意識内容とは、全世界の頭脳の条件づけが人類は同じなので、
自分は他人より優れている、又は劣っていると思っていることとは、その他人と比較して優越感や劣等感を抱くことであり、これは世界人類共通の「条件付けられている頭脳」経由の思考の特色の一つなのである
自分と他人が別々に存在しているという錯覚の上に、そう言う思考が全人類の意識の中で幅をきかせているのだ
この肉体を自分自身と思っている「この私」の意識は、全ての人類の共通の意識内容なのだ
頭脳が同じ条件付けである以上、同じようにその頭脳を経由している思考・意識は、
他人も自分と全く同じように肉体と自分を同一視している、
自分が個人や人格だと錯覚している、
自分は確固たる主体であり・魂だと思っている
従って「この私」魂が肉体や身体に宿っていると思っている、
しかし、宿っているものは「この私」ではない、
「この私」とは錯覚なのであって、内側にはない、それはそもそも単なる概念なのだ、実在ではないのだ
私たちのハートには宇宙に遍満しているものが、内側にあるのだ、宇宙が内側にあるのだ、宇宙はハートの中なのだ
私たちが分離していると錯覚しているのは、頭脳の条件付けの結果である
それは五感という感覚、知覚が頭脳を経由して意識されるので、知覚・感覚は搾少・歪曲され、且つ記憶されたこの意識は思考や感情と重なり、分離、個別感覚を強固なものにしてしまう、
そうしてますます、マインドはこの有機体・肉体を「この私」と同一視してしまうのだ、
マインド・思考が分離しているので、肉体もそれぞれが分離しており、他人と自己は別々の存在だと思いこむのだ。
記憶である「この私」と、この肉体は同じではない、別々のものである。片方は想念であり、片方は実在の表現体だ
この身体はこの身体であり私のものではないというのに、それを頭脳を経由した思考は、記憶となり、自己となり、その記憶が「これは私のからだだ」というのである
この肉体は「この私」の所有物ではない、この肉体は全く別のシステムに属しており、「この私」はこの肉体と一緒にいるだけなのだ
頭脳にくっついており、若しくは表現を別にすれば記憶が頭脳に縛り付けられているのだ、
ともかく同居しているだけなのに、肉体を自分の専有物と錯覚している
「この私」とはこの肉体を自分自身と思いこんでいる「記憶」なのだ
この肉体や身体と同一視した記憶は、即ち「この私」であり、主体である、観察者である。
この主体・記憶の中身はマインドそのものであり、それは「わたし」であり、見る者であり、観察者であり、経験者、体験者であり、自他を分離する者である
この記憶であるマインドの最大の特徴とは二元性である、努力し良くなろうとしている時間であり、恐怖である
自分と他人を、自分と世界を、自分は対象とは別々に分離しているのだと錯覚して知覚、認識することなのである
だから他人を見る際も、他人の肉体を他人と思い込み自分自身ではない、と錯覚するのだ
しかし、これらの責任は「この私」にはない、「この私」とは、このマインドのシステムが生み出した結果なのだから
「この私」が悪いわけではない、この頭脳を経由した思考・私は必ずこの二元性・分離性という色眼鏡の意識であるのだから
この映画、映像はづっと続いている、記憶が有る限りは
この記憶の継続は有機体の死後も続き、記憶は別の身体をもち、そこの領域でも生き続け
更に「この私」の記憶は凝縮されて、また転生して、同じように肉体の頭脳に縛り付けられる、新しい人格、その記憶と共に重ね合わせられていく
このようにして、その条件付けられた頭脳が生み出した記憶を更に加え、輪廻は続いていく
この輪廻を続けている記憶の意識の中身とは一体何か
それは
分離性そのものであり、良くなろうとしているもの、それを願っているもの、探求するもの、愛しようとしているもの、悟るために努力を重ねて修行しているもの、神と一体になろうとして努力し、瞑想し、祈りを捧げているもの、
何かになろう、到達しようとする動機と目的を持って親切にし、人に優しくし、八正道を実践しているもの、
超常的な光の体験をしているもの、及びそれを観察している観察者、知覚者、経験者、体験者、それら行為している行為者である
それらすべてのその中身は、「この私」・マインドの意識そのものである、この意識とは二元性であり、この意識の本質は葛藤であり、恐怖であり、悲しみであり、苦しみなのだ、そしてこの意識自身が、これらの自分から逃避しようとして、自分自身を見るものと見られるもの、主体と客体に分割し、上記のように斯くの如く、に「〜なる」行動をするのである
これを要約すると
・自分と他人を別々の存在と錯覚すること
・他人とは、肉体ではないし、思考の記憶物でもないのに、相手を肉体と同一視して、肉体存在・個人人格と信じてしまうこと
・「この私」とは記憶に過ぎず、観念、思考、想念形態なのに、何か永遠に存在する実体である魂だと錯覚すること、けれどこれには始まりも終わりもあるものである
・「この私」とは実在ではない、単なる記憶であり、概念であり、願望しているもの、目的と動機を持つもの、持続を願っているもの、思考し、知覚しているものであるに過ぎない
・「この私」の意識とは、自分の内面であり、内面の意識そのものである、自分の心そのものである、それの本質こそは恐怖である
・「この私」の内面は、プログラムされた通りの感覚、知覚、思考された結果であり、この結果とは経験、体験の集積であり、そのプログラム通りの条件反応である
従って
私の感覚も(感じることも)、
知覚も(見ることや聞くことなども)、
思考も(考えることも)、
感情も(感じることも)、
意志も
願望も
体験も(自分が体験する全て)、
経験も
内面での(即ち外面でも)知覚し見ることが出来るものはすべて、既知なるもの、マインドであるに過ぎず、
「この私」は「この私」というマインドの錯覚の意識そのものであるに過ぎない
恐怖と悲しみと苦しみと、そしてそれからの逃避がこの「この私」という意識の本質である
「この私」であるマインドの本質とは恐怖である
そして、この内なる恐怖をマインドは外部に投影して、有る特定の恐怖から逃げようとする、その恐怖は自分ではないと錯覚する
それが対人恐怖であったり、蛇に対する恐怖であったり、幽霊や化け物に対する物であったり
一文無しになってしまう恐怖であったり、財産を失う恐怖であったり、孤独になってしまう恐怖であったり
ひとかどの者に成れない恐怖であったり、暗闇への恐怖であったり、愛を失う恐怖であったり、老いと病気への恐怖であったり
ともかく、それらの恐怖はマインドという「この私」自身の内部に奥深く自分自身の実体として、その恐怖がいる
その恐怖こそが「この私」であり、「この私」の本質のマインドそのものなのだ
「この私」は恐怖そのものであるとき、これにマインドは反応する
そして「この私」が「この私」から逃げようとする
このマインドによる逃避反応行動が神への信仰や、探求や、努力、精進、良くなること、悟りなどと呼ばれ、このマインドの桎梏から逃げようとするが、この自己覚醒しようとすること自体がマインドの条件行動である
そして、このマインドの上に地球の文明の全ては成り立っている
科学、教育、文化、芸術、経済、宗教、国家、歴史、風俗、習慣など全てはマインドが生み出した、分身である
これらは
全てマインドであり、
「この私」の記憶の反応であるが、
この恐怖であるものを静かな沈黙による「見るものは見られるものである」の正見によって、それが見られるとき
即ち
「この私」の記憶が、この正見によって見られ照射されるとき
マインドは解消されると、
言うなれば非分離性、非二元性の光によって、マインドが見られることによって
分離性・二元性の闇が消えるとき
マインドが生み出した「この私」はいない。と多くの覚者によって言われている
「この私」がいないとき
このとき正しく見ることが出来る、あるがままを見ることが出来る
このとき、あるがままとは、既に完全完璧であり、全体であり、愛そのものであると言われている
そして、これらを見ている者とは誰か、
それは「この私」ではない、
そして、そこには見る者は誰もおらず「見ること」だけがあるという
正見している眼だけがある、存在だけがある
それは「この私」ではないもの、それは「存在自体」
非二元なるもの、非分離なるもの、全体なるもの、貴方と私に分離していないもの、命そのもの
一命一体そのものであるものがそこに在る
それこそが愛である
と言われている