私が考えているのか?それとも考えがやってきているのか?
B子さん:考えとは根源マインドから脳にやってきて、受信されて脳が出力したので記憶として認識されたのかしら?
それとも私という実体があって、その実体が考えていることなのかしら?
このことは私にとってはとても重要なので話し合いたいんだけど、如何かしら?
Aさん :そうだね
そのことは非常に大切なことなんで話し合う必要が有るね
通常、僕たちは自分が考えていると、当然そう実感しているし、自分の思考だと思っているよね
従って、自分の思考だと思ってしまって自己観察をし、それもこの自分がしている??と思っているよね!
自己観察と称して、
自分ではない思考のことを
『自分の思考だと思い込んだその思考自身』が
どうにかしようとやっきになって
思考を変えようとしているんだ
だけれど脳にやってきている思考とは、まったくマインド・思考の根源から来ているので
この思考には思考を
変えることなんか出来ないわけだし・・・
変えられないものを変えようとしている・・・
何かおかしいことをして
いるんだ
B子さん:その錯覚している状態、
その思考からの発想であるのが(思考自身の思込みが)
「自分が思考している」
「私が思考しているのでこの思考を変えなくては」とかいって何か努力することなのよね
自分の思考だと錯覚したその思考自身が、自分のものだと思い込んで、間違った自己観察をしているわけね
Aさん :そうなんだよ
まさか根源から考えが脳にやってきて、
その脳というマシーンに入力され、
そしてその脳の条件付けに従って出力し
その出力が「考え・自我」を生み出して思考者を生み出しているということ
そしてさらにその思考者がこの脳の反応に条件付けられたように反応していろんなエレメンタルを生み出している
と、そのようには思っていないよね
そのエレメンタルの一つが今生の人格・個人なんだ
誰もが「思考はやってきているものであり、私ではないものだ」と、そのようには思っていないよね
けれども思考を見る事が出来る「気づき・私」には、
はっきりとしてそう見ているんだ「思考は私ではない」とね
そして『思考は「気づき・私」ではなく』て、外部からやってきている『私ではないものだ』と・・いう実感が「気づ
き・私」にはあるんだよね
なにか自分がいて、自分のものがあって、自分が何かをしていると・・そう思わされ・・そう思い込んでいるんだ
B子さん:ふ〜ん、そうなのか・・ということは
その脳にやってきている思考が受信器である脳に入力されて
「私が考えているんだ」という、分離した「自己感覚・私」状態が生み出されたと言う訳なのね
その脳にやってきている思考が、自動的に観察者と観察されるものに分離したという訳ね
そして思考を見る「自分」と、その見られている思考の分離が生じて「自分が考えている」という感覚が
生まれたのね
自分が考えている・・は、錯覚なんだね・・・
この観察者である「自分」が、観察されている「思考」を生み出したという錯覚が生じたんのね
Aさん :そういうことだといわれているんだ
僕には、この辺のことは未だ実感されていないけれど
この思考が脳に入力されて、出力された思考の記憶が「自分」という感覚を持った自我であり
この思考の記憶であるものが、私と言う感覚を持ちはじめ「私」自我が生み出されていると言うこと
そして、この自我が「自分が行為している」、「自分が思考している」と言い始め
このマインドシステムの中で「五感」でそのように実感しているんだ
B子さん:そ〜か、その自分という感覚を持った記憶が、さらに脳にやってくる思考に対して反応する事によって
「自分が思考している」「他人が思考している」とそう思うことによって、自分を責めたり、他人を恨んだりしてしまい
ご存じの様に苦しみと悲しみの世界が出現するっていう訳ね
Aさん :このことは非常に重要だと思うんだよ
この思考を「自分が思考している」、「私が思っているんだ」・・・・・と思っているのはその脳にやってきている
思考自身だと言うことなんだ
だからそのように
思考は根源からやってきて脳に受信され、入力され条件付けというプログラムにしたがって出力しているだけだと
そのようにハッキリと自覚しているのは思考を見ている「気づき」という非個人的な覚醒・・・
即ち「気づき」なんだよ、マインドや思考ではないんだよ
B子さん:なるほどね
脳に受信された思考の思う事が、すなわち「私が思考しているんだ、私が考えているんだ」ってわけね
このシステムの全体を観照し、思考を観照しているのが「気づき・私」の理解であり、非個人的な理解なのね
即ち、それは
「思考とは脳にやってきているのであって、思考は私ではない」ということであって
その気づきは『観照というまったく非個人的なもの』からの観点であるということなのね
そして、その「気づき・私」には「自分が思考しているんだ」と言っている私とは単なる概念であることが
ハッキリとよく見えているのね
Aさん :うん、その通りだと思うよ
そういうわけで
「自分が思考している」「だからその自分の思考を自己観察する」と言っているのは頭脳を経由した思考が
間違って思っていることなんだ
それは決して「気づき・私」ではないんだ
それに対して
「思考が脳にやってきている」「私は思考ではない」と言っているのは思考ではなくて「気づき・私」なんだ
この「気づき・私」とは、全くもって個人や人格や転生しているサイコノエティック体やコーザル体ではなくて
この現象界のマインドのカラクリを識別している「気づき・私」なんだ
マインドや思考の次元ではないものが、思考次元を観照しているんだ
この「私は思考ではない」と言っているのは「気づき・私」であって
この「気づき・私」は頭脳の記憶である個人や人格と言われている「自分・私」ではないし
ましてや、この「私・自己」記憶体が更にこの脳の反応に反応する事で、生み出された想念形体・エレメン
タルでもないし
そしてこのエレメンタルが凝縮し、集合している無意識界の潜在意識でもないんだ
けれどもこの「気づき・私」とは
脳自体の肉体精神機構を形成し、それを維持し、持続させているプログラムでもないんだ
この根源プログラムはこの現象界のシステムを支えて運営しているわけだけれども
なぜこのような複雑な現象界システムを作ったのかと言えば
この根源プログラムは、肉体精神機構を使って自我を生み出し、その自我の可能性の中で進化を促して
この自我が、幾多のイニシエーションという洗礼(又は脱皮)を経て根源に帰還できるようにと
プログラムを作ったのではないかと僕は思うんだよ
きっと現象界維持のために自我は無くてはならないものなんだ
B子さん:というと
自我とは思考の記憶体ではあるけれど、これを創造した根源は
最終的には、この自我を「純粋自我」へと成長させ「気づき・私」と同等のレベルまで進化させていくという事かしら
Aさん :う〜ん、おそらくだけれども
この記憶としての「自我自己」のうち、それを「ワサナという低次自己」と高次自己の部分に分かれていき
この高次部分がサイコノエティック体やコーザル体を形成し、進化成長させて
輪廻転生界の中で進化を続けることにより、自己消滅を経て最終的に真我に吸収同化されていくのではないか
と思うんだ
このサイコノエティック体やコーザル体のことをラマナ・マハリシや覚者は体験者とか経験者とか言うんだけれどね
それは
この経験者、体験者、知覚者という『客体対象があるが故に成り立っている「主体もどき」』が消滅しない限りは
この自我である体験者に、いくらキリストや神が出現して歓喜に包まれても、
それは映画を見て感動して、感激し涙を流して打ち震えているのと同じで
映画館から一歩外に出てたら又元の分離している自分に戻ってしまい、この分離した自我が依然として
残っているのと同じで
このサイコノエティック体やコーザル体が脱皮し可能性としての洗礼を経ない限りは、復活は起こらず
「気づき・私」とは一体になれないと言うことかもしれないね
B子さん:そうよね
そうでないと、この壮大なる幻想界という錯覚を創造した理由がないですものね
Aさん :この根源の錯覚と言われる現象界ではイシュワラ神と言われる存在が神々の世界の最高の統括存在で
この夢とか、錯覚とか幻想とか、カルマとか、運命とか、マトリックスとか言われている世界を維持し支えて
いるシステムの最高責任者だと
思われるのだ
それなので
この「今此処あるがまま」と言われている「気づき・私」と「純粋になった自我」が結合するまでは
如何様にキリストに出会ったり、神とコンタクトしたりしても、それを経験している経験者、体験者が消滅してしまわ
ない限り、即ち「自我・自己」が蛹から蝶に脱皮しない限りは、
そのキリストに出会うことや神との一体の体験がかえって「自我・私」を強めて
自我の強大な者にしてしまい「気づき・私」から遠ざかる結果になる危険性を孕んでいるんだ
B子さん:ふ〜ん
随分と話が飛ぶのね
Aさん :この現象界のシステムというものを超越した立場から(現象界を超越した次元から)
この現象界システムを見ている観点が「気づき・私」の観点であり
この全体のカラクリを看破した言葉こそが
「気づき・私」が発する言葉
それこそが
「思考は脳にやってきている」「思考は私ではない」「私とは概念だ」なんだよ
B子さん:それではこの言葉を発しているのは
全くもって、輪廻転生している私である高次自我や進化している最中のサイコノエティック体やコーザル体ではない訳ね
その言葉を発しているのは
それらのマインドシステムという幻想を見破っている「気づき・私」という観照者である非個人的な意識なのね
Aさん :勿論僕はそれを、そうなんだよと言える立場ではないし
あくまでそれは僕の観念で話しているわけで、誤解しているかもしれない
これは僕の実地の体験ではないよ
だから
これはあくまで僕の考えであることを断っておきたいんだ
B子さん:そうよね
もしあなたがそれを観念ではなくて、実際の理解として話しているんだったら
あなたは、その「気づき・私」だと言うことになるものね