わたしがしなければならないことは



真の私・真我でない他の物事に注意を払うことを止めるだけだ
もしそれらに注意を向けなければ、純粋な覚醒だけが残る
それが真の私である


瞑想してはならない−在りなさい!
あなたは在ると考えてはならない−在りなさい!
在ることについて考えてはならない−在りなさい!

静かになりなさい!
そしてわたしは神だと知りなさい!


沈黙こそ、神である真我を実現するために必要な唯一の条件である

私と言う想念の源を探りなさい、そうすれば真我だけが残るだろう
                      
                               ラマナ・マハリシの言葉






あなたが真我を求めて深く深く探っていくと、真我はそこであなたを包み込もうと待っている、
そのとき、何であれ起こることは彼方なるものによって為され、そこではあなたはただ無力である、
眠りにつくものが全ての心配事を忘れるように、
この過程の中ではすべての疑いや、無駄な議論は自動的に消え去るのである

ハートに瞑想する人だけが、心が活動を止め、
静寂にとどまるとき、自覚を保つことが出来る
「ハート」は内にも外にも存在すると言われているが、絶対的事実において内にも外にも存在しない。
なぜなら、身体が内と外という違いをもたらす根拠だからだ。
ハート・源は全ての始まり、中間、そして終わりである、
ハート、至高の空間は一つの形態ではない。
それは真理の光である。」



このハートである「純粋意識は分割不可能であり、部分を持たない。
それは姿も形も持たず、内も外も、右も左もない、ハートである純粋意識(気づき)は全てを包含している。

その他には何もなく、そこから離れて存在するものはない」
「身体は単なる心の投影でしかなく、そして心は輝くハート(気づき・純粋意識)のおぼろげな反映に過ぎないからである。全てをその中に含むハート(気づき・純粋意識)がどうして実在の最微少の現れに過ぎない物理的身体の小さな一部分に限定される筈が有ろうか」




以上はラマナ・マハリシの言葉であるが
私はここで覚者によって
使われている言葉の意味を整理する必要もあるのではないかと思い
蛇足ながらも、自分なりに纏めたい

@「気づき」:(又はハート・純粋意識・絶対主体・真我・又は非顕現の神などという言葉で使われている)という非二元性であるもの、「見るものは見られるものである」非分離の、「私はそれである」という完全なるワンネスの気づき。
  「無限の私」である「存在」そのもの、
そしてこの存在である絶対全体があるので意識界が存在できる、成立することが出来る、のではないだろうか
  これは完全なる非二元性であり、全ての基底そのものであり
  これなくして宇宙も宇宙以外も、全ての時間も物質も非物質も一瞬も存在できないといわれている
未知なるものとも言われる
この気づきに於いては「世界は私であり、私は世界である」、「外部は内部であり内部は外部である」、
「あなたは私自身であり、私は貴方そのもの」となる
その気づきである真我は「永遠に今、ここ」に在ると言われる
私たちが心を消滅されたる時、自我が終焉したときはじめからあるものといわれる真の私

A意識:前述の愛である(完全絶対である真我)気づきが現象界に於いて、使用している道具とも言えるのが意識といわれる    
 この意識とは個人のものではない現象界のマインドという二元性の意識であり、
この意識の中身は時間そのもの、
そしてこの意識自体が、見る観察者であるところの、「個人という人格」である錯覚を生み出すこと
そして、この二元性の「意識の全体性」が顕現したものが人格神であると、
ラマナ・マハリシは言っている

 そしてこの意識の次元である意識界という、数多くの宇宙や平行宇宙、外宇宙又は多くの次元世界などにて、
そこに住むバラエティーに富んだ、数多くの意識存在の一つが、この地球の今の地表に住む人類である
 
また、この意識が各現象界のそれぞれの身体の頭脳の眼を通じて投影したもの
それが外部であると、認識されているところのそれぞれの身体、家庭、環境、近隣、社会、職場、出来事、 地域、国家、地球、宇宙、各次元宇宙であると言われている
この現象界の二元性の「マインド」というものは「見るものと見られるもの」の分離を知覚する錯覚の意識であるが
この意識が肉体の頭脳に繋縛されて、自身を肉体と同一化し、その記憶の集合である個別意識という自我(エゴ)を生み出している、そして外部に投影する
これが個人的な心とよばれている
そして、個人的な心であるこの自我(エゴ)が「私は進化している」と錯覚し、
この自我(エゴ)である個人が「気づき」を知ることが出来ると想像する
この意識を既知なるものともいう
 
 
B心:(実は第1想念の記憶体)前述のマインドが個別の身体と繋がったとき、即ち、この身体の頭脳と、そしてその身体の感覚や知覚に繋縛され、
生み出されたのが
記憶である想念なる心である、

意識界の意識であるマインドが頭脳に条件付けられた結果、
個人と錯覚し、自我(エゴ)という第1想念が生まれる  
これは意識界の意識であるマインドが身体と自己同一視して生まれた記憶集合体である想念である、
これが輪廻転生している魂、等とも言われている

  しかし、魂とは「心・マインド」の第1想念であるところの記憶であるもの自我(エゴ)であり、

この第1想念である記憶、これが輪廻転生している本体ではないか

  この身体の頭脳と感覚に縛られ身体と同一化した意識が、(この原初の想念が)第1想念と言われる自我(エゴ)である
  
この自我(エゴ)は記憶であり、これが身体に流入してくる思考や想念・感情ワサナと更に自己同一視して、自分は行為していると錯覚する
自分は単なる条件付けの結果であるのに、私が出来事の原因で、私の人生であると考えたりしている

さらにこの想念である記憶が(自我(エゴ)が)
  存続を願い、成就を願い、進化を希求し、解放と悟りを求め、神と一体になること。「我は神である」などと思考で思い込み、単なる自己の願望の働きに過ぎないのに神を求めていると錯覚し、真我が実現することなどを模索し始める、そしてその願望が、意識界のなかで存続し、輪廻転生というものを成立させている

C自我(エゴ)にやってくる思考感情:この心である記憶(第1想念)が、いずれかの身体と自己同一視することで、自己投影した外部としての世界を認識する
  肉体と同一視することで独自の物質界を
  幽体と同一視することで、独自の幽界を
  霊体と同一視し錯覚することで、独自の霊界を
  コーザル体と同一視し錯覚することで、独自の天界がそれぞれに認識される
  
そして、その記憶体が輪廻転生している独自の輪廻世界を作り出す

それらは全て根源が動かしている世界、対象が外部にあると錯覚している世界
これを現象世界または、物質界、幽界、霊界を総称して三界という

  ここの外部として知覚されるこの次元界、そこにまったく自我(エゴ)や真の私とは関係がない現象世界の出来事
前述のマインドという意識が各個人を通じて投影している意識世界、これが現在
私たちによって知覚される世界、地球、宇宙、次元である
即ち根源からこの現象界を回転させている為に起きている単なる現象であり、起きている出来事であるのに
自分を行為者と同一化し始める
  そうして自我(エゴ)が行為し、この現象界の人生を生きていると思ってしまう
行為者はこの肉体とこの頭脳を支配し、意志を支配して現象界を上映しているのだ

  肉体に起こること、肉体の健康や、肉体の能力や才能その身体特徴や病気、誕生や死亡
  それらは自我(エゴ)や真の私には関係なく、起こる又は上演される、又は上映されるのだ

…高次の根源者たるブラフマンによって

  肉体に起こる運命やカルマや出来事は、偽我である自我(エゴ)や真の私には関係なく、決まったように起きる
なのに、
自分が生きていると錯覚し、この起こることという時間に巻き込まれてしまう
しかし
それは決まったように決まる
なるようにしかならないのに
私たちがどのように心配し、気苦労しても、結果は本当は何ら変わらないのに
自分が行為していると信じ込んでしまう
このマインドによって生み出された個人はここの映画の出演者に過ぎない
台本に決まったように喋り、思い、行う、そして物事は台本通りに進んでいく

  肉体の回りに起こる出来事、結婚、離婚、子供の誕生、成功、失敗、裏切り、出会い、別れなど等々
これら全ては自我(エゴ)である私とは関係なく起こる、起きている決まったように

  この自我(エゴ)には自由意志は存在しない、
いくら頑張っても肉体と環境に出来事は決まったように起こる

その行為を生み出す意志と肉体の行為とは繋がっており、
自我(エゴ)の意志や真の私とは関係なく、
それは聖なる出来事として
  根源によって引き起こされている、
それは起こるように起こる


であるので
私は心配しない
なるようにしかならないからである

それよりも
もっと大切な事がある
それが在ると言うことである

これはどういう事なのだろうか

神よ、神は、とは何処でも耳にすることだが

「神を信じることは神を冒涜することである」
なぜなら信じるということは、マインドの思考作用の範疇である「自他の分離のなか」へ、時間の範疇という二元性である中に
即ち愛ではないことのなかに神を引きづり下ろすことである
信じること自体がマインドである時間の意識に過ぎない

「我は神なりと思うことは、神を否定することである」、なぜなら神をこの恐怖と暴力と悲しみと悲惨という二元性の思考の中に
神を引きづり下ろすことだからである
神は未知なるものであって、このマインドである既知のものではない

「神は思うことではない」、神は未知なるものである、どうして既知である思うこと、感じること、考えることの既知なるものの思考や感情や想像や類推という時間であるマインドのなかに見いだすことが出来ようか

「真我を覚醒しよう、真我になろう、真我に到達しよう、悟ろう、としていることこそ自我(エゴ)の動きだ」、これこそ第1想念である錯覚の想念である自我(エゴ・記憶)からの動き、あがきではないか、
従って
神になろう、神と一体になろう、悟る、悟ろう、真我を実現しよう等という動きこそ、真我実現を妨害するものだ

真我は既に、今ここに在る、何をしても、何をしなくても

既にここにある

錯覚を除くことだけが私たちの仕事だ

このマインであり既知である「心」という私たちの意識にとっては
肯定的に「私は真我である」「私は神である」「私は一つである」と思っても、それはそのように思考し、既知である二元性であるもの時間の中でのみであり、
結局は分離性であるマインドの範疇でしかない
既知なるものが未知なるものに出会うことはない
既知なるものが既知であることを悟ったとき
静かになり、脱落し
錯覚が消滅したとき
はじめからあった存在がそこにある、とそのように言われる
これは端的には
真我である真の私に、この既知である意識であるマインドが一番接近してできること、
これが真我への否定的接近である
そして
この否定的接近によって開示されるというもの
それが沈黙である
それが静寂であると言われている

それは
「私は肉体ではない」と考えることではない

「私は感情ではない」と思うことではない

「私は私という自我(エゴ)ではない」と類推することではない

「私は神だと信じること、思うことは」単なる思考である、二元性でしかない

そのことを思考している私、

そのことを感じている私

この私を判断せず
受動的に自分ではないものとして凝視する中に

全く新たなるそれ自体が沈黙の中に

顕現しているといわれる!!















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