個と全体という区別はあるのか



賢者は言われる

内部と外部は分離していない、内部は外部であり、外部は内部だと

私は貴方と分離していない、私は貴方であり、貴方は私だと

全体は個であり、個は全体であると

個人と全体はひとつであり個人と全体という分離はできないのだと

観察しているものは、観察される対象であると

外部の出来事は内部そのものであり、その外部の出来事は内部そのものであると

過去も現在も未来もなく「今」だけがここにあると



思考もなく、対象もなく


外部という対象だけではなく、内部の私と言う対象すらもないとき

見ている私も無く、見られている私も、そしてその私が投影している世界もないとき

即ち

「見るものは見られるものである」であるとき、全てがひとつであるとき

外部が内部であり、何も分離しておらず、私と神とが分離しておらず、個がそのまま全体そのものであるとき

その時、

認識している私と言うようなものが果たしてあるのだろうか

そしてその時


思考が有るだろうか

そのとき、そこにはただ沈黙があると言われている



けれど自分はまだその沈黙に出会っていない

分離、分割という二元性を超えた沈黙に出会っていない

だから、これらの言葉はあくまで


私の言葉ではなく、賢者の言葉である


この久保栄治という現在の私によって認識されるものは全てがマインドである、認識しているものがマインドであるからだ

現在の私とはマインドそのものであり、このマインドが認識し、知覚し、意識するものは全てが対象となり分離し、主体と客体の

分割となってしまう。

見ること、知覚すること、意識していることの全てが、即ちこれらの主体そのものが偽の主体であり、マインドのプログラムである


この主体とは外部からやってきているプログラムなのだ

この現在の私そのものがマインド自身であり、結果であり、誕生していないのであるから、

生きておらず、

生まれてもいないので

必然的にその結果であるマインドが生み出しているこの疑似の自己は全てを分離していると見る、見てしまうのだ


いや見る事そのものが出来ないのだ、目がないからだ


この疑似の自己は目がないので見る事が出来ない

従って見る事の全てを、分離して見てしまう

内部と外部という分割、自己と世界と言う分割

やってきている出来事を、偽の私を、対象を、分離している、自己とは別だとおもうのだ

私と出来事

私と他人(個々の頭脳に縛られ肉体を自分と思い込んだその思考は肉体が自分と信じて他人とは別だと思うのだ)

私の内面とそれを見ている観察者の私

私と宇宙

私と世界

内界と外界、個と全体、現象と実相、神と私、

そして極めつけは過去、現在、未来を分離したものとして認識してしまうことだろう


この疑似の自己は偽物であるから時間の範疇に有り、未来があると思い込み、決して「今」を理解できない

思考には今を理解できない、マインドには今を理解できない、時間には今を理解できない

時間が生み出した現在のこの久保栄治とは疑似の私であり

マインドに依って創作されている偽物の私であり、頭脳の記憶が凝集して単独の分離意識をもったプログラムなのだ

この久保栄治という記憶は私ではない

私ではないから、対象を私以外のものとして認識し、知覚してしまうのだ

真の私であるなら、対象の知覚や認識があるはずがないからだ

主体や客体の知覚や認識があるということが分離しているマインドである証拠であり、私ではないことの証拠だ

この現在の私とは私を詐称している、(脳に縛られている)プログラムの結果であり、プログラムそのものであるからこそ

知覚と体験と、認識と、知ることのすべてが、見る事の全てが、分離しており分割し、時間の枠内にある

「見るものは見られるものである」ではない意識、分離している意識、分離している私

この個人や人格であるプログラムされた自称私というものは

沈黙にあることが出来ず、全体であることが出来ず、必ず対象を持ち、対象を私とは分離していると思ってしまう

「見るものは見られるものである」と正しく見る事が出来ず、

常に何かに到ろう、何かになろう、何かを獲得しようと欲しており

此処に、安住し、何もせず、何も求めずに「ただ在る」事が出来ない

このプログラムされた偽物の自己が、現在の意識している偽物の自己であることを照見すべきである

虚偽が虚偽であることにとどまるのだ、恐怖が恐怖であり、不安が不安であることに留まるのだ

虚偽が、虚偽を虚偽と見るのだ



偽の私が偽の私を受け入れ、そのわたしから動かず、偽の私自身がその偽の私を抱きしめるとき

何にも成ろうとせず、何も願わず、何にも到ろうとせず、何もせず、ただいるとき

起こってやってきている肉体や出来事と、やってきて起きているこの偽物の私を見ている偽物の私が分離することなく、

ただ受容するとき

起こっていることを外部のことだとして分割せず、外部の出来事をそのあるがまま、そのまま内部として受容し

内部をそのまま、そっくり自己と分離していないものとして抱きしめるとき

虚偽を虚偽として抱きしめるとき

「見るものと見られるもの」の融合が始まることだろうか








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