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悪をみているものは悪自体だ


悪であるから悪を認識できるのだ

善は悪を認識できないのだ

善は善だけを見るのだ

愛は恐怖を知らないことだろう

愛は恐怖を認識できないことだろう

恐怖は愛を認識できない

恐怖を認識しているものは、その恐怖そのものだ

恐怖を見ているものはその恐怖そのものだ

憎しみを認識しているものはその憎しみ自体だ

イライラを感じているものはそのイライラなのだ

暴力を観察しているものとはその暴力だ


マインドのトリックとは何だろうか

マトリックスのトリックは何だろうか、このマトリックスのカラクリの一つは

一体何だろうか

それは


見ているもの、観察者、自分

体験しているもの、体験者、わたし

認識しているもの、認識者、個人・人格・主体

知るもの、知覚者である「私」というものを創り出すことだ、客体と主体の区別を創り出すことだ



恐怖を観察するときそこに(観察の対象である恐怖とは別である)観察している者とはいるのか?

その観察者・私とはマインドのトリックではないか


観察されるものが対象として、認識されたとき、その時、まったく同時に、それを見ている観察者・私というトリックが生

じているのではないか

このマインドのマトリックスとは一体何であろうか

その一つは

おそらく、認識の対象が出現したとき、その対象を見る(又は知る、又は知覚する)「私・主体」という(それとは分離し

ていると錯覚している)ものが同時に生じていることだろう、それがマインドの本性なのだ


対象を知覚している私である主体とは、その対象が生み出したカラクリなのだ。

見る私、知る私、認識している私、知覚する私などはいないのに、自動的にその観察者・見るものが創りだされているのだ。


他人や自分の中に憎しみを見ているものは、私や他人ではない、特定の或る人や、個人でもない

その憎悪が作り出しているもの、それが、見ている私や他人なのだ。


この恐怖を見ているもの、感じているもの、恐怖を実感しているものとは、「私」が恐怖を見て、恐怖を実感しているので

はなくて、恐怖が私と言う恐怖の観察者を作りだしているのだ。


恐怖を感じ、恐怖から避けようとして色々と努力し、又は避けようとして何かをしているものとは、その恐怖自体なのだ。



私が恐怖を感じ、見て、逃避しようとしているのではなく、その見ている私こそが恐怖なのだ、恐怖がこの恐怖を感じて

恐怖している私を作りだしているのだ

思考を意識し、思考から避けようとしたり、思考をコントロールしたり、思考を停止しようとしているものは、その思考自体

なのだ。思考が生み出した思考自身、それが行為者だ、私が行為していると実感しているこの自己だ

思考の存在に辟易し、それを観察している私とは、思考それ自身が(その状況を見てうんざりしている観察者)を創り出して

いるのだ。

自我というものを意識して、私の邪悪さに、私が自他を分離している様にうんざりしているものは、その自我である「その私

」なのだ、私というものが自我を観察しているのではなくて、自我こそが自我を観察している私なのだ。




他人を批判しているものは、私ではない。その私など何処にいるのであろうか。


その私によって批判されている、その非難されている他人こそが、非難している私を作りだし「非難すべき他人だ」と認識し

たのだ。

私によって非難されている他人こそが、非難している私を作りだしたのだ。


これがマインドというもののカラクリではないだろうか


見るものは見られるものであり、観察者は観察されるものであるのに

また、見るものとは、見られているものが作りだした虚像であり、この見られているものが見ている自分という虚像を生

み出したのだ

これがマトリックスの一部ではないか


思考が介在するとき、この思考が錯覚を創り出す、この錯覚こそ見る主体、観察者、認識者、体験者、知覚者即ち

私を生み出したのである。同時に見られる客体を生み出した。

この独裁政治家は誰か、独裁者を見ているわたしこそその独裁者ではあるまいか

この殺人者は誰か、殺人者を見ているわたし自体が殺人者ではないか

どうしようもないヤクザのゴロツキを観察している私とは誰か、このヤクザのゴロツキが観察している私を生み出した

のではないか

マインドがあるがままの事実に対して働きかけ、錯覚を生じさせて見る主体と、見られる客体を同時に生みだし、


あるがままにベールを被せたのだ。だからこの錯覚である自己にはあるがままが見えないのだ。


思考が働くとき、そこには必ず主体と客体の分離を生じさせる、これが思考の持つ魔力であり、思考のトリックだ

思考というものが介在しているとき、必ず私と言う偽の主体を発生させる、そしてそれが認識する対象を同時に

生み出させる、そこで思考は言うのだ「私は観察している」と

思考が思考自体を主体と客体に分離して、生み出された錯覚が言う「私は見ている」と

この自我という認識の対象こそが思考が生み出したものではないか、この思考の分離システムが作動して自身を

対象化したのだ


本当は自我を見ているという「私という主体」とは主体ではないのに、と言うより、

自我を見ている私が自我自身であり、その自我という自己感覚・分離感覚そのものがマインドそのものであり

その分離している自己感覚であるマインド・思考が

「自我を見ている私」と「見られている自我」という分離対立を生み出しているだけなのだ

マインドの一人芝居ではないか


そこで、その思考・マインドは自己を分離して、「私は自我です」、と言うのである

けれどこの言葉の指し示していることは自我を主体と客体に分割すること、即ちこれを言うこと自体が思考のなせる技であり

私と詐称しているだけではないか


実際はこれはカラクリであり、思考のマトリックスである

私を見ている私とは、見られている私自身・自我という観念であり

自我を観察しているもう一人の自我自己とは、その観察されている自我自体である。

見ている自我も見られている自我もマインドが生み出したマインド自身であり、両方とも虚構なのである

それは両方とも私を名乗って入るだけの「私と言う観念」ではないか

此処には観察者の自我も観察される自我もなく、マインドというマトリックスが作動しているだけなのである


その観察という行為自体が思考に属している領域の行為であり、思考というマインドの働きの範囲内であるので、

マインドが自分自身を分離しているゲームに過ぎないのである


見ている私と見られている私と云うように思考はその思考自体を分割し

あたかも高位の自己という自我を見ている、もう一つ上の観察者である私が存在しているかのような錯覚に陥ってし

まうのである



そういうわけであるので

自我を見ている私は思考という自我が作り出した罠であり、錯覚であり私・主体ではない

同じように

見られている自我も、その自我を見ている自我とともにおなじ一つのものであり、同じマインドのマトリックスである

そこには思考というただマインドしかいない、私を詐称しているものだけがいる

自我とは思考なのだ、それこそが私という分離(主体客体の分離)を生み出しているマトリックスである

このマトリックスが偽の私を生み出したのである

このマトリックスこそ、この現在の意識である

そのマトリックスとは二元性であり分離しているものであり、マインドである、それが自我と云うもの

即ち主体と客体の分離を生み出したのだ

この、意識し、認識し、知覚している「この私」とは、マインドが作り出しているもので、実体のないものである