私でない私とは同一化しないということ
ある日の朝、ふと浮かんだこと
私ではない私とはだれだろうか・・・・、それはこの私だと
この私とは誰だろうか・・・それは私ではない私だ、
私ではない私、それは自我と呼ばれている意識で、マインドである私だ
それは感覚し、知覚し、考え、知識があり、記憶し、欲し、願い、外部に世界を認識し、内部に恐怖と葛藤を認識しているこの私だ
その私とは思考で出来上がっており、記憶の塊、そして時間が生み出した「私と言う自我意識」だ
その私ではない私が一番に願っていること、
それが自己の存続であり、自己の成長、自己の成就であり、自己の拡大、自己の願いが叶うこと
そして、この「私ではない私」が脳と繋がっていて、この私を外部へ投影し、その投影した世界を自分とは別であると思っているのだ
だからこそ、
その私もどきは真我の実現を願い、努力し、到ろうとし、いろいろと探求し、実践し、愛深くなろうとするのだろう
果てには自我の終焉さえも願ったりするのだと思う、
それもこの自我が生き延びるためにだ、それは自我の欲望がおこしているのだ
その私ではない私とは知識を頼りにしているのではないか、この私もどきは思考と言うマインドであるから知識と記憶から出来ている
だからこそ知識と記憶でないことを、知識と記憶でもって思索し、考え、研究し、努力する
それは全く不可能なことであるのに・・・
そして「私でない私」は私が生きている、これは私の人生だ、と固く信じて、この思考は私が考えていると、信じているのではないか
だからこそ、その私もどきは思うのではないか「私が行為しているのだ」と、「私が生きているのだ」と
しかし覚者は言われる
その「私ではない私」とは、実は生きていないのだと、
ロボットが「自分が生きている」と思っているに過ぎないと
それはこの「私ではない私」とは、全くのロボットであるからだ
その「私ではない私」とは思考しかないので、だから思考する。
ロボットであるので「自分が思考しているのだ」と思考しているが、実はプログラムでそう思い込んでいるだけなのに・・・
が、いかに藻掻いても、このロボットとはプログラムで決まったようにしか考えないし動かない、動けない・・ロボットであるからだ
だからこそ、この私もどきの私は必然的に”欲する”
だからこそ、到ろうとし、なろうとして”努力する”
だからこそ、真我実現しようと”欲する”
だからこそ、自分は”他人と分離している”、万物と分離していると思い込んで、すべてを対象として”知覚し”、”認識する”のだろう
だからこそ、悲しみと、苦しみと、暴力と、恐怖を自分ではないものであると対象として”錯覚し”、そこから抜け出そうとする
それらを自己ではないものとして観察してしまい、それらを観察している私とはそれらの観察されるものとは別だと”信じ込む”
だからこそ”神と合一しよう”としたり”真我実現しよう”として、学んだり、研究したり、求めたり、努力したりするのだ、
その”到達し、愛を実践しよう”として努力していることが
この私が「私ではない私」であることを証明しているのではないか
もし真の私であるなら真の私とは思考ではないので「思考するということはない」し、
分離していないので外部と内部に分けては知覚したりはしないことだろう、
自分ではない他人というものもいないことだろうし、自他の分離はないことであろう
あなたが私で、「それは私」、「私はそれ」で、全てが一つであることだろう
「見るものは見られるものである」であろうし、
そのときには「見るものは見られるものである」であるので見る者も見られるものもなくなって、
ただ一つなる状態、ただ一つである完全完璧な「気づき」という意識だけであることだろう
上江洲義秀先生式に言えば「神しかいない」「神が神を神だけを見ている状態」と言うことであるだろう
今しかないので将来に何かを願うことなどないだろう、そこには時間の概念がもはや存在していないからである
そのような本当の私であるのなら
努力したり、〜になろうとしたり、良くなろうとしたりすること、などの時間を前提にしたことはしないであろう
これら私ではない私という「時間の奴隷」がするようなことはしないであろう
真の私であるならば覚者の言われるように全てに神を見て、神が神以外に何も見る事は出来ないであろうからだ、
全てが一つで完全完璧と言われるからである、全ての次元の基盤である状態、全ての物質と意識の基盤の状態であることだろう
それこそが「空間そのものの意識」と言われるものであるのかもしれない
しかし、現在の私のこの意識状態とは、残念なことに、私ではないところのマインドや思考や時間に意識を向けている状態でしかない
私が外部にマインドを見ているような分離している意識状態でしかない
「マインドを見ている意識そのもの」へと注意が向いていない状態である
だからこそ
この根源の意識である「真の私・気づき」へと注意を向けることが、
各質料の意識達に求められている、
これは焦眉の急なのである
私達、私ではない私達は『私である「気づき」』へと、注意を向けることだ
そして、その注意こそが、働きだして私ではない私と言う思考・エレメンタル群を粉砕していくのだ
私ではない私を発見することだ、私ではない私を「この私は私ではない」とハッキリということだ、本当にこの私は私ではないからだ
それが私達という、私でない私に求められている事である
是が自己を否定していく道程でもある
では、この私ではない「私・自我・マインド」とは誰なのか、この私は私ではないとしたら、この私とは誰なのであろうか
私ではない者とは「行為している私」、そして「行為していると思っているわたし」だと教えられているではないか
この両者とも私ではないと教えられている
従って、この私だと意識している私とは、まったく私ではない、この私は私ではない
私とはこの私でない私にとっては未知なる私なのである、未知なる私こそが私である
この私もどきは、自尊心が傷つけられるとすぐカットなって人を怒鳴りつけたり、嫌なことに出会って、急に落ち込んだりする私だ
人に意地悪をされて、嫌な想いをしている私、傷つくような私は、私ではないのではないか。
またその嫌な想いをしている私を私だと信じて、私は、良くならなくてはいけない、他人には思いやり深くしなくてはいけない
実際は愛などないのに、「愛深くなって人を愛さなければいけない」などと思って、人に親切にしたりするのも私ではない
失業になり、そのことでがっくり来ているのも私ではなく、何とかそこの苦境から抜け出すために色々と覚者の言葉を丸暗記して
「それらは、やってきている出来事なのだ」と、さも冷静風に受け止めたりしているのも私ではない。
それらの私とは私もどきだと教えられている
それらの「私もどき」がこの現在の状態のわたしである・・だからこの私とは、まさしく私もどきだ、この私はわたしではない
この私もどきは、実際には概念・マインドであり、このマインドには至高なる意識である非分離の意識の事は何にも分からないのに、
そのマインドという思考の記憶が、自分の欲望・願望が叶えられることを「真我実現」と思い込み
「自分は真我探求している」と倒錯しているのが、この「私もどきである私」の嘘ではないのだろうか
「私ではない私」という、分離したマインドが生み出した「この欲望である私」が願うことはすべてが自分の事ばかりなのではないか
だから実は、この私もどきは他人のことなど一切考えないし、願ってもいないのだ、
人のことなど、考えたこともないし、本当の意味で人の幸せを願ったことなどは一度もない
だから、この「私もどき」は必然的に自分のことだけを願うのである、自分の事で欲するのである、自分の事ばかりを祈るのである
願うことは相手の他人のことの為ではなくて、全てが自分の事ばかりだ、そして努力する・・・、その努力は他人の為ではなくて
全てが自分の為にだ、そんな努力は恥ずかしいことだ
そんな私とは私と言えるのだろうか、だからこの私とは私である筈もなく、私だとは言うことは出来ない、
それはマインドである、マインドが生み出した自我なのだ、
自我という「私だと言う」概念なのだ、
このマインドである私もどきは時間の中でしか機能しない、この私とは思考なのだ、知識なのだ、記憶なのだ。私ではない
マインドとはつまりは自分のことばかりを願い、考え、欲しているのではないか、
それがマインドという自我である思考の性質なのではないか、何故ならそれは「見るものは見られるものである」ではないからだ
「見るものは見られるものである」は思考を超越している、思考が消滅している意識状態であると教えられている
それに反して
この偽の私の「見る者と見られるものは分離している」と思っている意識状態・・・・これがマインドの本性だ
何故、この私もどきは安全を願うのだろうか、何故に安定を求めているのか
それは、この自分が『「自分自身」は不安定であり、安定しておらず、安全ではない』ことを知っているからなのではないか
では何故、その安定と安全を自分ではなくて、相手である他人のために願い、祈ることをしないのか、
何故自分になのであろうか
それはそれを願っているのが自我であり、自我という思考でありマインドに他ならないからではないだろうか、愛ではないからだ
しかし果たしてそれは「私」であるのであろうか
「私」は安全や安定を願ったりは決してしないであろう、既に安全であるからだ
何故真我を実現したいのか、又、何故神との合一を求めるのか
それは、それを願っている自分が、自分は真我実現しておらず、未知なる至高の存在ではないことを知っているからである
求めているものとは、生まれてきたものであり、死滅することを知っているのだ、だから不死と解脱を願ったりするのだ
では何故、その真我の実現を、神と同一を、悟りを、私にではなくて、目の前の他人に願わないのか、何故自分になのか
その真我実現と、神との合一を願っているものとは、既に真我であり、既に至高なる存在であるものではない
既に真我であり、既に至高なる存在であるものであるのなら、わざわざ真我の実現など願わないだろう、
既に真我であるからである
それを願っているものは自我であり、真我ではないもの、即ち分離している自我なのだ、だから、それを欲して願うのではないか
だから真我実現と解脱を願っているのは私ではない、私とは真我実現などは願っていない、
願っているものは「私ではない私」である
何故、良くなろうとし、到達しようとして、努力しようとしたりするのだろうか
それは、自分が良いものではなく、到達していないからである、
自分が邪悪で分離していることを知っているからである
だから統合しようとするのだ、そして自分が努力していると思い込むのだ
そしてその「分離しているもの」はあくまでその到達と統合を自分の為に願うのであり、その為に行動するのであり、
努力するのであって、他人であるあなたの実現と、あなたの統合の為にではない、
その自分は、あなたの為には何も欲しないのだ、愛が何処にもないからだ
だからその良くなろうとし、到達しようとして、努力を重ねるところのその私とは、私ではなく自我であるとおもう、
到達し、実現を願い、欲し、努力をしているものは、真の私ではなくて自我であるのではないか、
だから自我であるからこそ、時間の中に生存し、未来に於いて達成することを願い、欲し、努力するのだ、それも私のためにだ
良くなろうとして、努力ししているものとはマインドであり自我という邪悪なものだ、
その私ではない邪悪なものと同一化してはいけないと教えられている
何故考えるのか、真の私は「考えることはない」と言われている、真の私とは思考ではないからだと
ではこの考えること、
即ち時間と空間の中で、常に「思考者と思考されるものという二元分離」のシステムの中でしか機能しない私とは何か
それはマインドという思考が生みだした意識であり、或る質料の意識でもある、
その質料とは肉体と一緒に共存しているメンタル体という思考体と呼ばれる質料の事であり、
この他にも肉体と共存し、肉体と繋がっているサイキック体やノエティック体やコーザル体という
それぞれの質料が、それぞれに固有の私と言う意識を有しており、一緒になってタマネギのように真の私を覆っている
感情体が感情として私を覆い、思考体が思考として私を覆い、記憶体が記憶として私を覆い、人類の全体の記憶が私を覆っている
けれど今問題になっている思考に関しては、そのメンタル体質料の意識が思考であり、
私ではない「私・意識」の一部を構成している、
それら全てに共通のその「私意識」とはマインドという自我であっても、未知なる私ではない、真の私ではない
従ってその「私もどき」とは思考なしでは存在できないのだ、考える思考群は全てが二元の自他に分離しているマインドであり、
私ではない私であり、思考を超越している私ではない
何故知ろうとするのだろうか、何故探求するのだろうか、何故瞑想するのだろうか
知ろうとしているものとは誰だろうか、探求しているものとは誰だろうか、瞑想しているものとは誰だろうか
真の私なら知ろうとするのだろうか、真の私なら探求などするだろうか、真の私は瞑想しているのだろうか
真の私は在ると言われている
知ろうとするものは知っていないものである、だから知ろうとして全く別の方向(知識)へと歩んでしまう
知ること自体がマインドの領域であり、それは知識であり、記憶であり、思考であり、認識である限り
その知ることとは分離していることで成り立っていることなのではなか、
この分離している二元の時間領域には真実はないし、この領域は嘘でありマトリックスであり、真の私の領域ではないと信じている
この私というものが自我であり、マインドであるからこそ、私は知ろうとし、探求し、求めているのだ、歩んでいると
思ってしまうのである
何故不安や恐怖や悲しみ、苦しみから逃れようとするのだろうか
これらのことから逃れようとしているものとは誰なのか、
誰が、何から逃れようとしているのだろうか
避けたり、逃れようとしているものとは真の私か、それとも私ではない私か
真の私であるなら何かになろうとしたり、何かから逃げることなどありえない、全てが私であるからだと言われている
そこには「見るものは見られるものである」であり、従って見る者も見られる対象もなく、ただ一つなるわたししかなく
全てが私であり、何からも分離していない
そしてそのとき果たして、そこに不安や恐怖や悲しみや苦しみが存在することができるだろうか、勿論出来ない
また不安や恐怖や悲しみから逃げようとするような私はいるのであろうか、否、勿論いない
果たして、そこにその時真の私であるのなら、そもそも不安や恐怖や苦しみ悲しみがあるのであろうか
その不安を苦しみを悲しみを恐怖のそれをそのように認識していることで、それを見ているものは私ではないことを証明している
そのことでそれを認識し、知覚しているものこそが、その不安であり、苦しみであり、悲しみであり、恐怖それ自体であることを
証明している
恐怖から逃げようとしているものが、その恐怖そのものである。真の私ならば恐怖を認識していないし、恐怖はあり得ない、無い!
恐怖であるからこそ、恐怖が恐怖を認識して恐怖から逃げようとして改善したり、良くなるための努力をしているのであって、
その恐怖を認識しているそこには恐怖以外には誰もいない
恐怖を認識しているのは恐怖であって私ではない、それは恐怖なのだ、マインドなのだ
その恐怖とは自我であり、私であり、即ちそれはマインドであって真の私ではないのではないだろうか
その恐怖から逃げようとして、何かをしたり、愛さなければ、と恐怖を必死に変えようとしているもの自体が恐怖であるマインドであり
私と言う自我である。即ちそれは私ではない
だからそれらの自我の動きと同一化して、その恐怖から逃げたり、自我を良くしようとしてはいけないのではないか
私ではない意識と自己同一化してはならない!、私ではない私を受け入れてはいけない!
自我を良くしようとすること自体が自我の働きの極であるからだ
その恐怖が恐怖に留まっている状態のなかで、
自我が自我である状態の中で、
マインドがマインドである中で
良くなろうともせずに、何もしないでいる状態の中で、沈黙が訪れるかもしれないと教えられている
だから何も願わない、何処にも行かない、何もする必要もない、何かに成る必要もない
何も知る必要もない、何も求めない、何かになることもないからだ、
知覚し、経験しているものは私ではない
これが「恐怖というマインドと同一化しない」ということであるのではないか
このあるがままを、あるがままに、あるがままであることの中に、此処の中にこそ安らぎがあり、平安があると教えられている
自我やマインドに対して同一化しないとは
何もしない、何も欲しない、何もしない、何も必要としない、全てをあるがままに「見る」ことだと教えられているではないか
これに対して自我やマインドに対して同一化してしまうとは
到達し、真我実現しようとし、良くなろうとし、努力し、向かおうとし、何かを回避し、何かを必要とすることであり
良くなろうと努力することこそが自我とマインドのなせる技であると思う
であるので、
成ること、努力する事こそがマインドと同一化してしまったということではないか
良くなること、到ること、改善すること、努力すること、願うこと、欲すること、何かを動機を持って行うことは
マインドがなせる技であり、それは自我がしているのである、私でない
だから
良くなること、到ること、改善すること、努力すること、願うこと、欲すること、何かを動機を持って行うこととは邪悪である
それらは真の私が行っている事ではない
それらは全てが自我がしている
それは取引であり、自我が何かを得るために(獲得するために)行っていることであり、不純だ、
それらは全てが自分の利益のために行っている事であり、あなたの為と称していても、それは嘘であり、
自分のためであるのではないか、それは醜いことだ
それに反して愛のなかにはあなたもいないし、私もいないと言われている
愛とは「見るものは見られるものである」であるからだ
なのでその良くすること、到ること、改善すること、努力すること、願うこと、欲すること、何かを動機を持って行うことは
全てが愛ではない、
なぜならそこに自我(エゴ)がいて、私ではなくて、その「自我(エゴ)であるわたしもどき」がいるからであると
ラマナ・マハリシは言われる、「私は既に今此処に在る!既に在るのだ!!!」と