自我(エゴ)はまだそこにいる



「自我(エゴ)はまだそこにいる、何故ならあなたが、それを「見ている」からである 」

とはクリシュナムルティーの言葉である

これは

いつものようにクリシュナムルティーの言葉はマインドで理解するのが苦労するが

ここでは

見ている(この場合はこの見は真の見るではなく、単なる思考の反応である偽見ということを指していることに留意したい)に力点が当てられている


即ち、誰が見ているのかと言うことだと思う

このようにして、このように「自分とは別の存在としての他人」を認識しているのは誰かと言うことである

それはこの、見ているというこのレベルの状態であるから、それは当然見ているものは自我(エゴ)であると言うことになる

私たちがこのように、「他人」を自分以外の魂や、個別の人格として見ている限り

この見る、知覚する状態のレベルが

自我(エゴ)がまだそこにいるということを証明している


私が、自分を個人と思っていたり

私が、他人を自分以外の存在と思っていたり

していることが、

即ち、その知覚と認識そのものが、自我(エゴ)がまだそこにいると言うことである


私たちの、意識の座を覆っているものがまだ、そこにいる

それを証明しているのが

この知覚である

真の知覚であるなら

まず、この世界と、この自分が透けて見えているらしい

そして、時間感覚が滑落して、常に今此処で全てが「新た」、「常に新しい」という感覚らしい

そして、視線が相手の目を捉えることなく、いわば視線が合わずに、自分を通り越して見ているらしい

そして、自分は何も知らないと思うらしい

そして、思考や記憶は全く働いていないらしい

そして、世界が自分自身の投影でしかないと真に思うらしい

そして、夜中に夢を見ることは、ないらしい

そして、

自分の肉体感覚が、拡張して、自分の肉体であるのか、他人の肉体であるのかの認識が非常に識別できなくなるらしい、何を見ても自分の身体だと思うらしい

そして、一番の特徴は、何かに成ろうとはしないことであり

何も求めていないこと、何の願いも欲望も持っていないことであろう


だから、自我(エゴ)がまだ、この意識の座を覆っていることの証明は

そして、この自分がまだ自我(エゴ)であることの証明は

自分がどのように知覚し、見ているのかを知ればいいのだ

自分が他人の人格がまだみえているのか

自分は他人がまだ透明に透けて見えていないのか

自分は親や子供を自分自身ではないと思っているのか

自分は生まれたと、そしていつかは死ぬと思っているのか

自分はいま思考が働き、私の言葉を思考で理解しているのか

自分はこの時間があり、過去や未来や現在が有ると思っているのか

自分はグルや神や他人や世界が外に、自分以外に感じられているのか



これらの知覚や錯覚の「見」がこの意識の座に於いてあるなら

まだ私たちは、自我(エゴ)というものが
この意識の座を覆っており、それが働いていることを証明している


それがこのクリシュナムルティーの言葉である

自我(エゴ)はまだそこにいます、なぜなら、あなたがそれを見ているからです







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