反省は内省ではない
反省とは自己を非難することであり、自己を判断し、その自己を何とか良くなるように自己改善しようとすることである
これに反して
内省とは自己を非難することなく、判断することなく、良くしようとすることでもなく、ただただ自分の奥に内在している
魂の「愛情溢れる目」でもって、ただただ自己を暖かく見つめることである
反省も内省も同じく現在のパーソナリティーが行っている事ではある
反省も内省も現在のパーソナリティー自身が自分である現在のパーソナリティーやこの現在のパーソナリティーの
生み出した記憶からの反応(即ち自我というエレメンタル)に対して接する態度のことではある
けれども、
内省と反省は全く異なっている
反省とは、自我に巻き込まれ、自我を自分だと思った「個我である現在のパーソナリティー」が行っている自我に
対しての不適切行為、即ち自我を増大させてしまうことになってしまっている疑似観察行為であるに反して
内省とは、現在のパーソナリティーに細い糸で繋がっている「魂と呼ばれている私」と個我の共同作業による
自我・個我に対しての適切なる行為、即ち「愛ある自己観察」であるからである
では、この現在のパーソナリティーと細い糸で繋がっている私とは何だろうか?
それは魂とも、観照者とも、目撃者とも、永遠のパーソナリティーとも呼ばれており、
自分である魂自身の一部である現在のパーソナリティー(個我)のことを愛していて、
昼夜の別なく、何時も、どんなときも、如何なる時も、病気の時も健康の時も、豊かなときも貧しいときも、
悲しいときも嬉しいときも、幼かったときも老いぼれたときも、瞑想をしているときもカルマに翻弄されているときでも
生まれる前から、そして死んだ後も、暖かく見守っている本当の意味での私である「魂と呼ばれている私」である
そう言うわけで、この内省とは「魂である私」と「個我である現在のパーソナリティー」とが繋がって起こしている
観察という行為であり、それが本当の意味での自己観察である。
魂の私と、現在のパーソナリティーが共同して暖かく愛情を持って自己・自我・個我を見つめている・・
それが自己自身を見ていることであり、現在のパーソナリティーの自分が自分たちを愛している自己観察である
従ってその自己観察の中には、自己への批判もなく、自己への判断もなく、自己からの逃避もなく、
その反対である自己への暖かい愛情に溢れている。個我が魂に接近しているからだ
まだ不純物が多く未熟な愛だけれども、この愛の中で自分の一部である現在のパーソナリティーとその現在の
パーソナリティーが生み出した記憶の反応であるエレメンタルの自我という私を見守っているのである
何故そこまでこの私を愛し、見守ってくれているのであろうか?
これらの全ての私とは、個我にとっては私でなくても、魂の私にとっては私自身だからである。分離していないから
である
魂の私にとっては、この「現在のパーソナリティーの私」も魂自身の一部であり、この現在のパーソナリ
ティーが生み出した「記憶の反応である自我」も私の一部であるのである
従ってこの魂の私は輪廻転生にもある意味では巻き込まれているのである
輪廻転生に巻き込まれていない私とは、魂の私ではなく魂の内奥の聖なる真の私である、と
だからこそ、更に、この魂の私の内奥に自他の分離が全く存在していない真の私がいると言われている
その真の私が魂の奥に実在していると
私たち現在のパーソナリティーは「魂である私」と直に繋がっているのにも関わらず、魂とは関係ないと思い込ん
でいる。それは何故なのか?
それは
頭脳に縛られているので、頭脳内に起こっている「私達の体験」のことを自分の体験だと錯覚したのである
頭脳内の時空間に繰り広げられる体験や経験、頭脳に起こる記憶からの反応、そして条件付けられている頭脳
に受信され、送信されている思考と感情・・・それらを認識して現在のパーソナリティーはそれらを自分の思考や
感情だと錯覚して更にエレメンタルを生み出してしまう
はたまた、高次な魂の内奥である「真我の高次意識の認識」をもたらす事が出来る様になるんだよと騙されて、
霊的な修行や方法により、また脳内麻薬によって引き起こされている疑似悟り・疑似覚醒体験・・それを体験して
そしてそれで・・・自分は悟ったと、自分はその「高次の私」の認識を得たと勘違いしてしまうのだ
悟ったり、悟らなかったりしているのは脳に下ってきた魂が「投影している個我」という私が思っていることである
悟っても、悟っていなくても、私である魂の内奥に真我は在るのであり、既に「在る」と
この悟るとか悟らないとかということを思ったりしているのが現在のパーソナリティーの間違った解釈なのである
だから、私たちは反省ではなくて内省を実践して、自己をそしてもう一人の自己である、私の目の前のあなたを
見守り、愛そうではないか、そして実際にその魂の私と、更に魂の内奥の私に、この現在のパーソナリティー
が結ばれたとき(肉体とエーテル複体とサイキック体とメンタル体の波動が魂と同調できるまで高まったとき)
このとき始めて、ラマナ・マハリシのように
現在のパーソナリティーの私は魂の私に吸収されて(魂の私は内奥の真の私と融合して)こう言うの
である
「私は行為していない、神よ貴方が行為されています」と、そして現在のパーソナリティーは自分が
行為していなかったことを正見するのである
けれども、この三体が整合していない状態で、そのようにそれを言うのは現在のパーソナリティーにとっては嘘
をついていることになるのである
その「私は行為していない、神よ貴方が行為されています」といえるのは、自他の分離感覚の消失してしまった
レベルにある「魂と一体になった現在のパーソナリティー」であり、それはそう思うのでもなく、観念でもない
それは直に判ること、即ち直覚なのである。にもかかわらず、現在のパーソナリティーが単なる知識で
それを述べることは嘘を述べていることになる
現在のパーソナリティーにとっては魂との合一が求められているのに、それを遅らせることになって
しまうのである
「既に私は真我である、私は行為していない」と言えるのは真我とひとつになった現在のパーソナ
リティーであり、そのレベルにない自我や現在のパーソナリティーが、その状態ではないのにそれを言うことは
嘘をついていることになるのである