気づきは気づきを意識していない



私が教えられているのは以下の事である

気づきは気づきを意識していない。

愛は愛していることを意識していない。

意識を意識しているものは気づきではない

愛している私を、そして愛している対象を意識しているものは愛ではない
愛は愛していると言うことも知らない、愛には主体も客体もないからだ。

「ただ一つなるもの」は自らを意識しない。それは意識ではないからだ。
「ただ一つであるもの」は知ると云うことを知らない。それは知性ではないからである。

「ただ一つであるもの」は理解しない。理解を超えているからである。理解するとは、理解する主体とその理解される客体の分離を含んでいる、理解とは意識の領域であり気づきの領域ではない。

「ただ一つであるもの」は気がついていない。【気がつく】とはマインドの領域の事柄であり、気がつく主体と気がつかれる客体の分離を含蓄している。

「ただ一つであるもの」は喜びである、何故なら理由もなく、動機もないからである。

「ただ一つであるもの」は【愛】であるとは思わない。なぜなら愛そのものであるものには愛でないことがないからである。全てが愛であり、全てが一つであり、愛であるものには愛以外はないので、愛に気がつかない。愛以外にはないからである。

「ただ一つであるもの」は思わない、考えない、知らない、なろうとしない、行わない、理解しない、願わない、それらはマインドの意識である、それゆえに、それらはただ一つのものではないからこそ、思い、考え、知り、理解し、自分を意識し、行い、なろうとするのである、願うのである、「ただ一つであるもの」は思考を超え、知ることを超え、知識を超え、意識を超え、認識を超え、体験を超え、行為を超えている。

「ただ一つのもの」はただただ在る。

「ただ一つのもの」は時間と空間を超越し、意識を超越して在る、ただ在る、今此処に。

と以上のように教えられている(これは勿論、久保栄治の段階ではない、教えられていることである)


このことをクリシュナムルティーは、詳しく教えて下さっている

「気づきは、自らが気づいていることに気がついていません」と述べている

即ち、「気づき意識」は自らは気づきと意識していないと言うことだ

では同じようにクリシュナムルティーのいう自己想起というワークの中で、主体と客体の両方に選択なく気づいている「気づき」とは、そのとき自らは「気づいているのだ」とは意識していないと云うことだ。

逆に言えば、その自己想起の中での
「自分が気づいている」と云うことを意識していることはあり得ず
その「気づいている」状態の中には、「私は気がついている」というところの私を含んだ意識(マインド)はないと云うことだ。

またクリシュナムルティーは違う箇所で「注意すること」については

自己観察の中での主体と対象の同時に「注意している観察」とは特定の或る部分(たとえば怒りや恐怖)への集中ではなく全体への気づきであることを強調している。

「あなたが怒っていて、その怒りを終わらせる事に関心があるなら、
久保注:その瞑想は動機や目的を持っているので「自我(エゴ)としての私」の動きであり、その支配下に陥ると云うこと)
その時、怒りに焦点を合わせているし

(久保注:それは受動的凝視ではなく、集中という排除の作業を自我が行っているので)


全体はあなたを回避するし、怒りは強められてしまいます、
(久保注:マインドがマインドを気づきである全体的として超越的に見ないで、マインドがマインドをマインドとして見るときはマインドを強めて支配されると云うこと)

全体を見なさい。」

これは「自我(エゴ)としての私」やワサナやサムスカーラや

そして起こる(やってくる・沸き起こる)思考や欲望や感情や想念・概念を

それらの特定の部分に焦点を集中するのではなく、限りなく拡がっている無限の意識、際限のない無限空間そのものとして、それらを気づきなさいと云うことであるのであろう

それは自身が全体である(ただ一つなるもの)として見なさいと言うことであろうか

それは、無限に拡がっている際限のない宇宙の青空に、来ては流れていく雲が、思考やワサナや感情であるという
比喩が当てはまるのではないだろうか

磨かれきって自ら光る鏡の表面を流れている、思考や感情や「自我(エゴ)としての私」を囚われずに見るという表現もあるけど

限りない無限空間の中に、雲の様に流れている「自我(エゴ)としての私」や出来事、身体そして欲望や想念といった方がより正確かもしれない

そう言う比喩がうまく当てはまるかどうかは定かではないけど、私に意識されるのはマインドしかないので、そのように比喩を用いた方が分かり易いのではないか

私たちそのものである無限空間(空)に現れているマインドとは、では一体何であろうか

それは限定されている意識である。しかもそれは時間と云う感覚であり、過去現在未来とに今を分割した意識である。

またそのマインドとは自己を意識している意識であり、主体と客体との分割であり、常に自己・私に汚染されている。

それはまた世界を愛していることを、妻や夫や子供を愛していることを知っている意識である、それは汚されている。それは畢竟、本物の愛ではない。

本当の愛とは右手のしたことは左手には知ることはない、状態の意識である。自分がしたことを意識し、知っている意識。それがマインドであり、それが行為者という意識であり、真の意識である気づきを騙る
(かたる)マインドというものである。

マインドは自分が愛していることを、自分がしていることを知り、自覚している意識である、この意識の特長は行為の為して「行為者・自分が為している、自分が思っている」という感覚である

自分がやっている善行を、そしてまた世界の救済の為に尽力し働いていることを意識し、そして世界に光りを与えていることを意識している意識であり、これこそが分離の最たるものであるところのマインドである。

このマインドこそが《肉体は私だ》《あなたは身体だ》と錯覚し、内部と外部に分割している、その結果、内側が意識であり、外側が客観世界であると信じており、内界と外界とに分割し、更に自分自身をも対象としてしまい、トリックであるところの「見ている高級な自分」と「見られている低級な自分」とに分割してしまう。

このマインドは、「見ているもの即ち主体」と、「見られている対象即ち客体」というように、自分とそれ以外というように、全てを分割し、分離してしまった。

しかしよくよく見ればその主体とは一体何だろうか、私、及び私のものとは実体のない観念以外の何者でもないのではないだろうか、実はその主体客体と分かれている主体とは意味のない概念であり、クリシュナムルティーの云われるように、この主体と客体は同一であり、客体が分離して主体を生み出しているのではないだろうか。

そしてこのマインドとは行為の為し手(行為者)という感覚であると同時に、この行為の為し手である意識でもある。
その意識とは具体的には体験者、観察者、行為者、認識者でありその集積の記憶である。


さらにこの行為者は記憶に、観察者は経験によって、認識者は認識によって生まれており
この記憶、経験、認識などのそれらの中身である思考や感情や知性や理性や知識、知ること知られうること、見る事、見られる事、想像すること、欲望や願望などおよそ認識できるすべて、がマインドの範疇に含まれている。

これを平たく云うと、私たちの知ること、見る事、経験すること、体験すること、認識すること、達成すること、到達すること、願うこと、願わないこと、思う事、信じること、信じないこと、欲望すること、記憶すること、記憶しないこと、等々の意識の全てがマインドであると云うことではないだろうか。

さて翻って「気づき意識」とは主体と客体とを気づいている意識ではないとすれば

意識という本質が自己を含んでいる以上

その「自己という対象との分離」を含んでいる意識とは、全てが「気づき意識」ではないことになる

その「私を含んでいる意識」とは「空である私」ではない。

クリシュナムルティーは

気づきとは「私と対象を含まず」、意識していることを「意識している意識」ではないとハッキリ言明している。

さて翻って、彼が「あるがままをあるがままに見なさい」と云っているときの、その「見る」とは何か


それは「私と、その私が見ている対象」を分離しているものではなく、ともに「ただ一つのもの」として見ている「見」であることは明白である

だからクリシュナムルティーが推奨する自己観察とは

「ただ一つのもの」として内も外も分離なく、自と他の分離なく、時間と空間の分離なく気づきとして受動的に見る事(私と私の対象に分割することなく見る事)

この内部と外部に起こっている思考や感情や概念や欲望や願望を、そして「自我(エゴ)としての私」やその自我に対する反応とを、大空に浮かんでは流れ、来ては去っていく雲のように、それに囚われることなく全体的に留意することであり

彼は、それを詳しく、分かり易く、丁寧に、実際的に説明しているのであって、クリシュナムルティーの事をひと囓りして「彼は不可能なことを行うように人類に求めている」などと誤解してはいけない

それは絶対に不可能ではない。不可能なことではない。

不可能であるならば、何故彼は、此処まで詳しく、児童にも分かり易く死ぬまでこの自己観察を行うように熱心に説いてきたのか

彼のあそこまで熱願していた「自己観察」を私たちは真剣に行うべきである

それは不可能ではない

ただ非常な極度に研ぎ澄まされた受動的感受性と、継続する超努力が要求されているだけである。







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