軽蔑


Aさん :きょうは軽蔑について話し合ってみたいんだが

B子さん:人を見下したりする自尊心のことね

Aさん :うんそうだけれども、僕の自尊心や、君の自尊心というものではなく、人類共通の自尊心についてなんだ

     それは軽蔑だけではなくて、憎しみや、恐怖や、イライラとか、不安とかも同じ事だが・・・

B子さん:〜というと

Aさん :僕たちはそういう心の中の醜いことをみると条件反射で、それを批判したり、それは「頭脳の条件反射」だ
   
     とか言うことで避けてきているんだ、若しくは宗教の教えによって、それは見てはならないこと、忌むべき

     こととして、それから避けてきたんだ、けれどもかえって、それらを忌むべきこととして心の中から避ける

     ことによって、確実にそれらは増殖し、繁殖して私達を無意識から支配しているんだ

B子さん:宗教の教えの殆どは、これらの心の暗部を恥ずべき事、忌むべき事として、見ないように、触れない

     ようにして心の隅に押しやってしまい、ますます、それらを増殖させてしまっているという訳ね

Aさん :では軽蔑とか自尊心は個人的な心の働きなんだろうか、それともそれは個人的ではない人類共通の

     心の働きなんだろうか

B子さん:〜え!!貴方の言っている意味が分からないわ


Aさん :軽蔑とか自尊心とか言われている心の働きは、実際は個人の心の働きや状態ではなくて

     人類全体、人類共有の心そのものの状態だといういうことだよ

     だからこの軽蔑とか自尊心とかいわれ、忌むべきこととして蔑まれている心の状態は、別に僕や君だけ

     の特別な状態ではなくて、心を持っている「私全員」即ち頭脳を持っているもの全ての共通した状態なんだ

     ただそれを個人的に認識できるか、できないか、だけなんだよ

B子さん:というとこの軽蔑や自尊心は私だけが持っているのではなくて、それは人類の心そのもののであり、

      人類の共通した心の状態だというのね、一つの心を人類は共有しているのね

Aさん :そうなんだ

      それなのに、君や僕はそれを自分だけの心の占有状態だと思っているわけだ

      この自尊心や軽蔑だけではなくて、暴力や恐怖もそうなんだ

      憎しみや怖れと言った心の状態は個人に訪れるある特定の条件によって発生していると

      思われているかもしれないが、実はよく見てみると、それは特定の或る条件が整ったときに発生して

      いるのではなくて、実際には元から備わっていたことであり、或るキッカケが揃ったときに顔を出すことに

      よって認識されているもので、それは最初から潜んでいたわけだ、条件付けとしてね

      だから心そのものが分離であり差別であり、それが軽蔑しており、憎悪しており、恐れていると言うことなんだ

B子さん:でもそれらは貴方の心の中身ではなくて、人類全体の心の中身だというのは何故?

Aさん :よく考えて見てっ

     僕たちは決して特殊な存在ではなくて、全ての人類は精子と卵子の結合から生じてDNAによってプログラム

     されてコントロールされているんだ、そしてまったく人類は同様の頭脳の構造で成り立っているんだ、

     それは少しは能力に差というのはあっても基本構造というのはまったく同じなんだよ、同じ条件付けなんだ

     そしてその同じ頭脳を通じて同じ現象が、同じ心の状態が起きている、

     その同じマインド・心が、同じことを思うんだ

     それが

     「自分は人とは異なっている」、「自分は肉体だ」、「自分は他人とは違う個人だ」と思う事なんだ

     この思い、これはどの個人でもまったく同じように、そのように思うんだ、


     しかしこれは間違っているのではないだろうか、

     僕たちは個人ではなく、他人とまったく同一の(他人と分離していると思っている)「私という人類共通の

     こころ」なんだ、この人類共通の心こそが「自分は肉体であり、他人とは違った個人だ」と思っているんだ

     けれども

     僕たちはまったく同じ構造であり、同じ構造の頭脳であり、そして人類は同じ苦しみと恐怖と軽蔑心を持ち

     そして同じようにそれらが自分自身であるにも拘わらずそれらを非難してそれから避けようとしているんだ

B子さん:というとその恐怖や憎しみは私だけのものではなくて、人類全体共通の、というより人類全体は一つの

      心であり、人類全体は一つの同じ頭脳の状態だという事ね

      この私個人の軽蔑心や自尊心、そして私個人の恐怖も暴力も、決して個人的な恐怖や暴力ではな

      くて、人類共通のものであり、実は人類が同じ心であり、それはまったく一つのマインドであり、この

      マインドの状態が頭脳に反映されて個人的な暴力や、恐怖だと認識されるという事なのね

      それは個人個人のPCは単体であるけど、そのPCはインターネットに接続されて、同じ映像を見て

      いると言うこと、何故ならそれはおなじ構造を持つPCであり、インターネットに接続され同ように

      動いているのと似ているわ

Aさん :よく意識のことでPCの喩えが出されるけど、そうなんだよ

     それにも拘わらず僕たちは自分特有の心の状態だと思うんだよ

     全員のPCがインターネットに接続して同じヤフーを見ているのに、その恐怖と暴力と自尊心を

     自分のPCだけに起きているのだと思い込んでいるのと同じ状態なんだよ

     人間の場合はPCではなくて頭脳だけれども、同じような構造であることは間違いないね

B子さん:それで話が元に戻って

       軽蔑のことだけれども、貴方は私が軽蔑しているのではなくて、「私が軽蔑している」と自分でそう

       思っているだけで軽蔑は「私という自意識の本体であるこころそのもの」、この人類全体が同じ一つの

       心の状態であり、それが軽蔑心そのものだというのね

Aさん :そうだよ、そこだけど

     実は軽蔑心だけではなくて、自分だけ、自分の、自分を、自分に、自己の満足を求める・・・等々の

     私と言う自己意識の心の働きの全ては人類が同じ一つの心で動いていると言うことなんだ

     それこそがマインドとか、第一想念とか言われているマーヤである「私」という概念なんだとね

     それこそが、仏教で言う所の根本無明、キリスト教の原罪かもしれないね

B子さん:それをラマナ・マハリシはこの私という第一想念の根源を見なさいといわれるのね

      その「私と言う概念」である根本無明は真我から生まれているということなのね

      そしてその根本無明があらゆる出来事と、運命と、あらゆる時間と、あらゆる空間というものを歪めさせ

      そして「良くなっていく私」という概念を投影しているといわれるのね

Aさん:だから頭脳で認識されているこの時間とこの空間とこの心である私とはマーヤなんだ

    私達の認識している時空間はマーヤによって汚染されている

    だからこそ本当の今此処あるがままはマーヤによって隠されていると

    私達の見ているあるがままとは

    本当のあるがままではなくて、人類共通の私と言う概念が頭脳を経由して投影している時空間であり

    それをまた観察している観察者も「客体と分離している主体」即ち観察されているマインドの一部なんだ

    そしてそのマーヤのシステムが

    輪廻転生を繰り返して「段々と良くなっていると錯覚している私」を生み出し、継続させ、支えているんだ

    だからこれを話している僕自身がこの人類共通の私と言う根本無明そのものなんだ

B子さん:いやいや貴方だけではなく、私だけでなく、全ての人類の私は同じようにこの根本無明そのもの

     だわ

Aさん :だから私という他人と分離している個人を実感をし

     見られている者と見ている私が別々だという主体と客体の分離を実感をし

     過去現在未来という時間を実感し

     何光年という距離を実感しているものこそが

     この根本無明であり、そしてそれが

     この人類共通の「私という人格意識」なんだ、私なんだ、

     
B子さん:そしてそのマインドであり根本無明である「人類共通の心」こそ私の心なのよね・・・

Aさん :そしてその人類同一の心が、これは私の自尊心だ、私が軽蔑している、私が怒っている、私は憎んでいる

      私は恐れている、だから良くならなくては・・・等と言うんだ

B子さん:だからラマナ・マハリシ達は心は私ではない、意識は私ではないというのね

      (勿論この場合の私とは心を超えた未知なる私ではある)

Aさん :そうだよ、だからクリシュナムルティーはその私ではない心というものを

      同一化も非難も逃避もしないであるがままを凝視しなさいと言うんだ

B子さん:その凝視の中には動き回る思考はなく、私も無く、静止と沈黙があると言われるのね・・









     







  

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