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見ることが出来る「目」は開いているか


見ることが出来る目は、果たして開いているのか

目が開いていないのに、見ることが出来るはずがない

目が開いていないで、見ていることは真実ではなく、想像の世界である、マインドの世界である、錯覚のマトリックスである、

見ている私と見られている私の分離である

私は、自分の恐怖や暴力や不安や傲慢や欲望や愛のなさを見ていない(見ていると思っているに過ぎない)

それらの恐怖などを見る目が閉じられているので「見る事」をしたくても、出来ない、見れない

私は盲目である、目が開いていないから。

この目が開いていない状態での「見ているという錯覚」とは、

全て自我(エゴ)の範疇であり、マインドという自他の分離であり、見ている私と見られている私の分離であり

見るものと見られるものの対立である、それが個人という観念でもあり、それこそが私が見ているという錯覚を与える

多分

「見ること」とは「私が見ている」状態ではない、と推測している

それは「目」そのものが「見ている」のであって、その「目」は私のものでも、あなたのものでもない、その「目」は所有されないし、所有しない、

持つとか持たないとか、私が見るのとか、あなたが見るとかでもない、それはまさしく「見ること」であり「見るものは見られるものである」の「目」である

その昔、クリシュナムルティーが新聞記者に取り囲まれて、「クリシュナムルティーさん、あなたのご意見をお聞かせ下さい、お願いします」と言われたとき、彼は「私は意見という、個人の思考はありません、私が語ることは個人の意見ではなく真理です」と言ったので、新聞記者は唖然として、立ち去ったという記述があるが、
それが「見ること」の本質であり、個人の考えや主観や客観ではない。
この「見ること」とは私やあなたのものではなく、私やあなたを含む全体そのものであるのだろうと思われる。

良く、クリシュナムルティーは「あるがままをあるがままに見なさい」、「受動的に凝視しなさい」と、多くの人たちに言っていた


しかし、よく考えれば、この「あるがままをあるがままに見る」も「受動的な凝視」も究極の状態であり、開眼後の状態であるのであり、
目が閉じられている状態での個人・人格がまだ存在している私たちにとっての「あるがまま」とは

単なるマインドの二元性の状態、即ち見るものと見られるものの分裂、主体と客体の分離、私とあなたと分割、内部と外部の逆転、時間と空間の錯覚などという、根本のマトリックスのことであり、クリシュナムルティーが言うところの「あるがまま」とは似てもにつかないものをあるがままだと見ていることになる。

彼が見ているあるがままとは「本当のあるがまま」であり、実相と現象とに分裂させているマインドの状態ではない

彼は「一つなるもの」を見ている「一つなるもの」の状態なのである

そしてその「あるがまま」を見ている「見」とは、まさしく頭脳経由の「見」などではなく、開眼している「目」そのものの目が見ている「見ること」であるのであり、私たちの分離している「閉じられている目」で見ているのでは決してない


此処は重要なので、クリシュナムルティーを学んでいる人には分かっているとは思うけれど、彼が言っている「受動的な凝視」とは、現在の私たちの「閉じられている目」が行う思考による見ることや、自我(エゴ)が行う「凝視」という作業では決してない


「受動的な凝視」を行う前提として、まずはじめに目が開いていなければならないのであって、私たちがこの「受動的な凝視」を行いたいのなら、まずはじめに「第三の目」が開眼している事が、絶対条件である


「あるがままをあるがままに見る」「受動的な凝視」も開眼している状態のクリシュナムルティーが言っていることであって、私たちには、その前提である第三の目の開眼が完了していることが必要である

この第三の目とは私の眼ではなく、「全体なるものの目」である。

ということは目とはそもそも個人のものではなく、あなたや私と言う分離そのものが成立しない領域のものである(次元のもの)と言うことなのではないだろうか


では、この目が開眼することは、どのようにして起こるのか

私たちのすること、行うこと、考えること、開眼しようとすること、即ち行為(行為を肉体にのみ限定しないので)とはなんだろうか

それは、条件付けの結果(プログラムの結果)であり、これは行為ではなく「行動」でしかないではないか、

それも「プログラムに条件付けられている行動」であり、行為しているとは決して言えない、

この行為ではない「行動」を起こす元である「観念」が条件付けプログラムされているのであるから、必然的に、その条件付けの範囲しか動けない

クリシュナムルティーは私たちは行為ではなく「行動」しているのであり、行為はしていないという

それをラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジ的に言えば「自由意志はない」「行為者はいない」「行為していない」という表現になるかもしれない


個人が全く存在しておらず、人格もない領域からすれば、推測するに
私たちのこの個人という錯覚も、条件付けの結果であり、プログラムの結果であるとすると、「開眼」という最も大切なプロセスも、起きていることであり、起こるように起きていることなのであり、「私」が努力の結果「開眼」したのでも、「私」に「特別に」恩寵が与えられたのでもなく、この「私・自我(エゴ)」をあらしめている根源が、その根源自身のプログラムとして行っている事なのではないだろうか

従って「開眼」とは、「〜する」、「〜なる」の過程では決して起こらず。

「〜しようとしない」、「〜になろうとしない」あなたであるときに、そのようなプログラムされた意識の状態中に、起こるようにセットされて、起こる様に起こるのではないだろうか

「開眼」は全く以て、この自我(エゴ)や自我(エゴ)の意志や願望には左右されないだろう

「〜になること」、「〜至ること」、「〜実現しようとすること」、「〜開眼しようとすること」という自我(エゴ)の欲望の延長線には全く存在しないことだろう


何故なら開眼という、目を開く目とは私のものではなく、未知なる御方の目であるからである、その全体である御方自体であるから
その至高なる存在が、それ自体が自らの目を開くのであり、その時期とタイミングと状態は、その一なるものが完全なる智慧と愛で自らの目を絶妙のタイミングで開くのである

私たちの自我(エゴ)でさえも究極では、本当は個人の自我(エゴ)などではなく、全体の部分であり、その一なるものであるのではないか

自我(エゴ)さえも全体の一部であり、この現象界の映し出されている映像の一部として、(この聖なる錯覚の一部として)聖なる催眠の一部に寄与しているのであるから、最早何もすることもないし、出来ない。

絶対の信頼で任せること、受容すること、

何故なら、その任せている私、受容している私こそがプログラムで与えられている「想念の私」であり

本当は全託し、自己放棄している私など誇らしげに言うことすら出来ない。単に起きている映像なのではないだろうか

しかしこのように思考している私の観念に対して本当の「真実」を開示してくれるのは、瞑想しかない

結局は

それは第三の目の開眼しかないのである

そして、その為には
「正しい」瞑想しかないのである

と教えられている。