マインド・・って何〜?
Cさん:始めまして、実は僕もあなたと同じように真我の事を研究している者なんですけど、僕の所では殆ど思考とかマインドと
かいう言葉は使わないので、その言葉には余り馴染みがないんですよ
ですんで皆さんが使っているマインドという意味がよく分からないのですけど?どういう意味でつかっているのですかね?
Aさん :通常世間一般で使っているマインドとは心とか意識って言う意味だけど、それとはちょっと違うね
内面を探求する者にとっては一般常識でつかっている心とか意識だけでは大まかすぎて、それでは適切ではないので
内面の状態とか意識の状態を示すためにはマインドとか、思考とか、気づきとかの言葉の意味を限定し、この代名詞を
当て嵌めて会話しているんだ(勿論その言葉が指し示している内容を理解しているわけではないけれども)
Cさん:そうかそれで、このホームページで言っているマインドという言葉の意味は、一般的な個人的な考えとか、悩みとか、
苦しみとかいう「心と言われている意識」とは少し異なっている使い方をしているんだな
Aさん :そうなんだよ、個人的と言うより、もっと誰の内面にでも同じである人類共通の心の状態を指しているんだ
だからマインドというのを意識あるものの共通の分母みたいな「自己意識・心」と思った方が良いかもしれないね
それは何も人類だけではなくてあらゆる次元のあらゆる意識存在にも当てはまると思うよ
Cさん:・・・というとそこから個人的な色んな考えや思いや苦しみが出てくる「大元の分離している私・心」ということ?
Aさん:僕たちはマインドという場合はそういう意味でつかっているよ
このマインドという意味は
内側と外側、または内部と外部という区別をしている心・意識
見ている私という主体と、見られている「対象である客体」を持っている「私」という心・意識
私と私以外とに分割して見ている心、主体と客体が分離している状態の心
ということかな
ラマナ・マハリシはこのマインドのことを適切にこう言っているんだ
「まず自我が立ち現れ、そして外側に対象物を見る。
もし自我が立ち現れなければ、ただ真我だけが存在するだけで、その外側には何も存在しない。なぜなら
自分の外側に何かがあるということは、自分の内側にそれを見る者が存在していることを意味するから
である。
その見る者をあなたの内側に探し出しなさい、そうすれば怖れも疑いも消え去るであろう」
「・・・・・(諸々の現象は)それらはただ主体のなかに溶け去る事が分かるだろう
その主体とは誰なのか、
それを見極めなさい(久保注:この主体こそ自我というマインド)
この探求が主体を超えた純粋な意識へとあなたを導くだろう」
・・・と
Cさん:そうか、ラマナ・マハリシの「私は誰か?」の私とは、この根本的な内側の根本自我即ちマインドのことを
言っているのかぁ〜?
Aさん :僕もCさんとその点は同意見だね
ラマナ・マハリシの「私は誰か」は、内面の根本的な、人類共通の「主体と客体に分離している私」のことであり、
「私は誰か」のワークとは、この私即ちマインドを直視し、そのマインド・私意識の発生してくる根源に到ると言う
ことなんだね
Cさん:確か彼は
対象を持っている心、すなわち「自分とは違う存在として対象を認識している心」こそが「私と言う根本想念」
だと・・何処かで言ってたね
Aさん :だから僕達はその対象と主体を持っている心であり、共通している私という自己意識そのものが自我であり
マインドだと思うんだ
この「マインド自我」とは恐らく宇宙大まで拡大するだろうし、ありとあらゆるものに浸透しているだろうしね
けれども、このマインド自我はどこまで行っても見られている対象を自分以外と認識しているんだ
「見るものは見られるものである」を理解することは出来ないんだとね
Cさん:それは大変なことだね、
君の話がこの次元に留まらず、また宇宙に拡大してもそれがマインド・自我だと言うことは・・・・・
しかし、けれどもそのマインド・自我そのものは真我から発生してきているんでしょう
たしかラマナ・マハリシもそういっているよね
Aさん :それは体験しないと、僕には何とも言えないし・・・
ラマナ・マハリシはそのマインド・自我の発生するところが真我であると言っているよね
ただ言えることはこの”「全人類共通のマインド自我」の根源”に行き着かない限り、悲しみはいつまで続き
分離の悲しみである見る者と見られる者、私と「対象である貴方」の分離と、この幻影は続いていくことだろうね
たとえ、この自我がどんなに能力を拡大し、あらゆる事に精通して、世界と宇宙を支配できるようになったとしても
根本的なマーヤである「見る者と見られる者は別だ」という錯覚が続く限り、恐怖と疑いはいつまでも
あることだろうね、拡大した自我は錯覚という幻影の中で生き続けなければならないだろうね
Cさん:そうか
だからラマナ・マハリシは
この「私という想念」を捉まえなさい
「私という想念」を捕らえなさい!って言うんだね
Aさん :僕たちがいつもつかっているマインドという意味を分かってもらえたですか
Cさん:うん有り難う、非常に良く分かったよ、但し単なる言葉の概念としてね(本当の理解ではない)
僕はあなたたちの考えや教えとは違う流れに属しているので、進み方は異なっているけど
愛である気づきに於いては何ら替わることはないんだし
こうして意見を交換できることは良い事だね
Aさん :そうだね、全ては学びなんだね、この学び自体も学ぶ者達の傾向があって多様性があると言うことだよね
どの教えが高級とか低級とか言うことはないよ、自分の光線・傾向に合った方法で歩んで行けばいいことだし
それをお互いに尊重すれば良いことだからね