人類は今までに一度も神を求めたことがない
私達は、今まで過去の歴史のなかでけっして神を求めたことがなかった
と、クリシュナムルティーはそのように指摘されている
神のために闘い、神を信仰し、帰依し
神のために戦って自分の身を犠牲にしたかもしれない
また神に平和を祈り、神に真剣に祈り、従ってきたのかもしれない
そして神のために人生を生きて、神を求めてきたと思うかもしれない
自分は神の信仰に篤く、神と共に歩んできたと思うかもしれない
しかし、それは違う
人類は一度も神を求めてきたことはない
私達は一度も神を求めたことはなかった
私は今までに一度も神を求めたことはなかった
神を信じ、帰依し、探求しているとおもうこと、これは自己欺瞞である。
神という名前を付けられた「自己の欲望」が、成就されることを願い、それを求めてきたのだ
その自己の欲望のことを誤って神と思っているのだ、これは自己欺瞞だ。
私達は真の私・真我を求めて探求しているのではない
神の探求や、真我探求はまだ行われていないのだ。
真我や神という名前を冠してはいるが、実際のその中身とは、自分の願望成就、自分の達成、自分の永続、自分の成就、自分の自己実現を、であって、それはいくら自己欺瞞されていても結局は自分の欲望が満たされることを、願い求めているのであって、真我・神を求めているのではない。
それは、自己が永続すること、自己が安全であり、安定すること、安楽であること、自己がワンネスの歓喜に震えること、自己が満足することであり、全てがこの自己という自我の願望と欲求に沿って動いていることであり、真我・神を探求していることではない
私達はまず、自己に正直になりたいのだ、そうでなければ先に進めないからだ。
結局、私達人類はまだ神を求めておらず、真我を求めていないことを認めるべきではないか。
神を求め、真我を探求していると思っているだけであり、実際のあるがままは自己の安定と安全、そして拡大、存続を願い、苦しいことや恐怖から逃避し、快楽という観点から自己にとって心地よいものを誤って法悦とか歓喜とか平和とか名称を付けて、さも何か高次の体験のように錯覚してはいるが、結局は自己の快楽の奴隷となっており、その快楽を法悦体験と思って追求しているだけなのだ。
これは自己欺瞞であり、真我探求ではない、私は安定と安全をそして安楽・快楽を求めているだけであり、決して神を求めているのではない。
真我探求や神の探求は未だ始まっていないのが、私のそして人類の現状である。
恐らく真我は「今此処」に在って、私達が真実、求めてくるのを首を長くし、手を差し伸べて待っておられることであろう。
真我には自己欺瞞は通用しない、自己に対する嘘は見破られてしまう
だからキリストは、身を浄くし「思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くして、私である内なる神を求めよ」と云われたのだ
ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは究極そのものであり
「行為者はいないこと」、「自由意志は存在しないこと」などのことは究極の真実ではあっても
この究極の真実を言明できるということは、そこの究極の現実に立っていることであり、そこに実際に存在していなければならないのだ
私達はその究極の真実を言明できるためには、自我(エゴ)の終焉を通過している必要が有り、
その前に
真我の覚醒が起こっている必要が有る
この究極の二段階を飛ばして、いきなり最高度の段階であるラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジの言明を自分に当てはめることは出来ない
従って、知性や理性によってラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジの言葉を誤解し(それは記憶し・知識となっていること)それを鸚鵡返しに唱えることは嘘を言ってしまうことになってしまうのだ
だからこそ
まず私達は中間原理であり、自由意志が有ると錯覚しているこの魂であること、を認める必要が有るのだ
そして自己欺瞞を排除した上で、全力、超努力で神を求め、真我を希求するべきであり
出来れば、そして幸運があればこの中間原理が真我の中に消滅することが出来るかもしれない
けれども
この中間原理の魂として、私たちは内なる神の探求、真我探求を始める、この前に、
私たちは、いまだかって、そして現在でさえも、決して神を求めておらず、真我実現を願ってはいないことをハッキリと認識すべきである。
最終ラウンドでこの中間原理・魂が真我と合一し、消滅することができるまでは、私達はこの中間原理として真我の中に消滅することが出来るように、自らの波動を高め、上昇していかなければ、一体どうして私が消滅することが出来ようか。
この中間原理とは、言葉の低い意味で魂と呼称されているが、この魂が神の探求を始められるようにならなければならない。
魂という中間原理の中から自己欺瞞という不純物をそぎ落としていく事が早急に求められているのではないか
この私と言う中間原理は、今までに一回も神を求めたことはなく、真我を求めていないのだ。
自我の欲望である安全と安定と継続とこの満足だけを求めて来たのだ。
その満足を希求することを神への信仰だと思い込み、それが神に帰依していることだと錯覚していたのだ。
人類はまだ神を求めたことはないし、求めてはいない。
自己の快楽と、自我の欲望である快楽の実現を求め、それを平和とか成就とか、求道とか、信仰とか、サマーディとかの名称を付けて自己欺瞞に陥っているだけだ。
人類はまだ神を求めたことはないし、求めてはいない。
私たちである中間原理・魂が消滅するまでは、この中間原理の責任は中間原理・魂そのものである私たちが負うことになるのではないか。
だからこそ
自己欺瞞に陥ることなく
苦痛や恐怖や不安定や危険などの現実のあるがままから避けたり逃避することなく
安定や安全や能力の拡大や経験・体験を求める欲望に囚われることなく
苦痛や苦悩や絶望を回避し、その裏側であるにすぎない快楽や法悦や歓喜を求めることなく
あるがままに留まり、動かず、受動的に凝視する中で
「思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くして、私である内なる神を求めよ」を実践していきたいものである