頭脳の変換が悟りかーそれは真我から起こる
先日の秩父市での会合の時であった
上江洲義秀先生は、別の会場で、ある人のところに、そのある人の瞑想中、「悟り」がやってくるのに気がついたそうである、しかし
その「ある人の自我(エゴ)」は、現段階の状態で、もしその「悟り」ともいうべき体験をすることによって、かえって自我(エゴ)といものを強化してしまう結果になることが「見てとれた」ので、その「悟り」の体験が起こらないようにした
と言うことを語っておられた
と言うことは、この上江洲義秀先生の仰ったことは以下のことを示している
・真の私、真我に到達した人は、その「ある人」の真我そのものでもあるので、その「ある人」の『魂である自我(エゴ)』の状態が(ステイト)がよく分かり、その人にとって今一番、何が必要なのかをよく分かると言うこと
・究極の解脱ということは、その体験者そのものの不在(即ち自我の終焉)を意味しているので、自我(エゴ)の残滓がまだ沢山残っているいる場合は、そのやってくる歓喜と平安、若しくは愛のワンネスの体験は、そのある人の自我を強化してしまう結果に陥る可能性があるということ
従って、このワンネス体験が自我(エゴ)の終焉をもたらすどころか、場合によっては、かえって自我(エゴ)の強大化をもたらすこともあると言うこと
・頭脳の変換が「悟り」をもたらすと説く、“ある方”もおられるが、頭脳はあくまで濾過器であり(受信器、発信器であり)、ここを通過して、やってくる思考、感情、記憶を受け取り、フィードバックしているのが魂〔「意識の座」を覆っている、記憶の蓄積物とも言うべき(自我(エゴ)という想念〕)である、これが頭脳にしっかりと繋がれ、組み込まれているのだ
なので、この頭脳の持つ高等思考という手段を使って、「意識の座」を覆っている、ものである「自我(エゴ)」を正見し、ハッキリとこれを全体的に理解する事によって、この偽我が消滅しなければ、
いくら頭脳の手術ということ(!?)により、頭脳の性能が良くなり、受け取ることが出来た「やってきたもの」により、「ワンネス」の体験をしてみても、かえって、そのワンネス自体の体験が、自我の肥大に繋がり、更なる悲惨を招くと言うことも有りうると言うこと
・私たちの現在意識というものは、現在のところこの物質界に生きている(焦点が合っている)ので、この肉体頭脳に縛られている、
即ちこの条件付けられた肉体の頭脳経由でしか知覚も、思考も、感情も「意識」できない、必ずこの肉体頭脳を経由してしてしか、思考や感情や記憶や想念を「意識」できない様に、「意識」が頭脳によって縛られている
「現在意識」はこの肉体頭脳に固く縛り付けられている、ということは、それはコードを経由して電源から電気がこのPCに送られるように、私たちの「意識」は今のところ(他界)するまでは、この肉体頭脳に繋がれ、自我(エゴ)とそのワサナとに影響され、この肉体の頭脳経由でしか認識できない、仕組みになっている
しかし他界しても、それは又同じように別の体の頭脳によって繋がれ「意識」は覆われてしまい、相変わらず「自他の分離」「主体と客体の二元性」「過去現在未来という時間」「自分という錯覚である思考」を抜け出すことが出来ない
・ということは「ある大変なパワーを持ったかたがた」が言う、頭脳を手術し、それにより「聖なるワンネス」の状態となり、それが悟りを実現することだ、ということは、それを受け取る「意識」という魂の存在を除外している。
「頭脳」イコール「意識の主体である魂」ではない。
また「意識の主体である魂」イコール自我(エゴ)である第1想念でもない
「意識の主体である魂」は対象ではなく「私」である
勿論、この際、ここでは真我である真の私や観照者といった「永遠のパーソナリティー」のことは全く問題ではないし問題にならない
真の私とはこの「頭脳」や「意識である魂」がどのような状態であっても、全く変わらず、「いまここ」に何時も、必ず「在る」からである、と言われている
これが一瞬でも存在しなかったら「魂である現在意識」も、それに取り憑いている思考である自我(エゴ)が外部と錯覚している「世界や宇宙」も全く存在しないだろうから、と思われる
であるので、今ここで問題にしているのは真の私「わたし」ではなく、真の私を覆っている「自我(エゴ)という魂の意識を隠しているもの」についてであることを確認したい
・だから頭脳の条件付けの解除である「頭脳の手術」によっては「意識を覆っている自我(エゴ)という第1想念」は変わらない
しかし「意識を覆っている自我(エゴ)という第1想念が去る・晴れる」事によって、その結果として「頭脳」は変わる
これを変えるのは真我である
平ったくいえば、「自分が変われば頭脳は変わる」ということである
では誰が変えるのであろうか、それは勿論、真の私である真我である
ここのところを多くの方々が間違っている
チャクラやクンダリーニによって悟りが得られるのではない、それは結果として起こることであり、自我(エゴ)がすることではなく、自己観察、自己想起のワークの結果として、それは真我によって行われるのだ
このチャクラやクンダリーニを人為的に、欲望によって開花させようとする意図(自我(エゴ)の)の究極に位置することが「頭脳そのものの手術」ということである、最も真我に叛することである
チャクラの開花やクンダリーニや頭脳の変革は「真我」によって管理され、行われるのであって
単なる、偽我の願望や欲望である「良くなりたい」「悟りたい」「神になりたい」では行われない
それに手を染めることは邪悪である
「意識」の一つの機能である純粋思考によって選択や集中ではなく、「思考と分離と時間である自我(エゴ)」をあるがままに正見されたとき
その「正見」することによって、静まり、沈黙が訪れるという、
そして、その沈黙の中に「気づき」がやってくるという
思考と頭脳の条件付けの結果である記憶と、その記憶である自我(エゴ)という想念の特色こそが「自他の分離」、「見るものと見られるものの二元性」、「よくなるということの時間」であること
そして、これらのものが虚偽であることがハッキリと自ずと分かったとき
その事自体が頭脳に変換をフィードバックして
頭脳を少しずつ変換させ、条件付けを徐々に解除し
その中で
真の私である真我が動き始め
その結果として頭脳が根本的に変わり始め、「聖なるエネルギー」が頭脳に流入し、そのことが更に頭脳の条件付けを解き放ち、「現在意識」と「意識」が真の私と繋がるのだ
それを全て管理し、行っているのは真の私である真我であり、ある特定の「フォース」ではない
であるので
頭脳の条件付けの解除という「頭脳の手術」も
チャクラの開花、クンダリーニの上昇も、
全ては、この真の私である真我が管理し実行しているのだ
そして、その唯一の条件とは
真の私である真我に戻ること
真の私を思い出すこと
自己観察
自己想起
というワークである
これこそ「あるがままをあるがままに見ること」でもある
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