観察者と観照者と真の私

  私が使っている観照者という言葉は、プログラムである輪廻している私(自我・サイコノエティック体)をじっと愛情を持って目撃し続けている私のことである

  また観照者とはそのプログラム(条件付けられた魂)である観察者を分析したり、非難したり、避けたりしないでじっと観照している私である

  一方、観察者とは現在のパーソナリティーのことであり、自我自身を分離した思考で観察している観察者のことである

  そのような分離した目で観察する私、プログラムとしての結果の私、盲目の私、即ち現在意識のこの私のことを観察者という

  また観察者である自分は自分を分割し、絶えず、対象としてやってくるマインドを自分自身であるのにも関わらず、それらを自分以外の認識対象として

  認識し、体験し、知覚し、経験して、それらを恐れたり、逃避したり、判断し、非難し、評価し、思考している、

  しかしこのマインドが自我の本質であり、観察している自分とそれに観察されている自分と二つの自分という分離二元を生み

  作り出しており、それは即ち思考である観察者が思考自身であるにも関わらず自分を対象として「観察される私」として認識しているに過ぎない

  この観察者とはこの現在の意識している私、「熟睡、目覚め、夢見」の意識であり、この意識でしかない意識を持って仕事をし、生活している私である

  それでは私達に求められているワークとは

  それは、この観察者であり自我である私が、「未知なる私」である英知の観照者と一つとなって、この未知なる私の観照者の働きである

  「思考無くして観察者を観照すること」をたゆまなく行うことこそが肝要であり、それこそが「あるがままの私をあるがままに観照すること」である

  この後に続く、「真の私」「真我」「存在」に関しては私は何も知らない、この思考である私にとっては、真の私は未知なる私であり

  想像することも,はかり知ることも出来ないが、私は全身全霊でそれら「未知なる私」を信じている、その私の方をこの私はみている