聖なる誤解



特別に親しい○○○の友人と魂の話をしているときのことであった「久保さん、ホームページで久保さんは魂のことを書いているけど、魂は存在していないと○○○は言っているけども」と指摘された

けれど私はその時思った

これが「正しい誤解」である、若しくは「正しい間違い」、「聖なる錯覚」というものであると

「魂は存在していない」
これは究極の覚醒次元に於いての真実ではあるし、本当の事実であり至高なる真理ではあると思う

良く、覚者方が言われる「我は神であり、全ては一つである」、「我は全体にして、全てが分離していない」と、
これらは、まさに究極の真実であり至高なる状態ではある

またラメッシやニサルガダッタ・マハラジの言うように「全てはやってきていること、起こっていることであり、出来事も、肉体も、カルマも、「自我(エゴ)としての私」も、全てが私の意識の座に投影されているプログラムの結果に過ぎず、実は何も起こっていない、自我もなく、私も無く、行為者はいない」ということも、同様の至高なる真実であり、事実である。

「見るものは見られるものである」、「主体と客体は分離していない」、このことも至高なる真理であり真実である。

また「私は肉体ではない、私は思考ではない、私は感情ではない、私は理性ではない、私は魂ではない、私は存在していない」これも全くの至高なる真実ではある

しかし、これらの究極の事実は、この存在次元ではない(リアリティーのレベルではない)久保栄治が話すとき、
即ち、低次元で実存している現在の久保栄治の状態に於いては、その究極の真実というものが、この私の状態を通過してしまうと、(私が話したときは)この真実も「嘘・虚偽」となってしまうのである。

何故なら、実存のこの久保栄治の次元では、「自我(エゴ)としての私」が現在のレベルであり、「第1想念の私≒魂」としての私が私であるからであり、
本を読んで知識や概念でもって「私は在る」とか、「全ては一つである」とか思ったり、考えている、この「私」こそが、「私は在る」と云う観念でしかなく、私の実際の(現実のレベルの)状態とは久保栄治というエゴの自分である、と言うことであると思われます。

従って、この実存である久保栄治が話し、考えることは、思考を超えていることを話していても、本当の実体とは思考を超えていると錯覚している思考であり、観念を超越していると錯覚している観念であるので、それらの至高の真実の言葉が久保栄治の実存を通過し語られると虚偽となってしまうのである。

従って、この私が語ることは全てが記憶であり、観念であり、思考であり、覚者方の思考を超え、記憶を超え、マインドを超えた「気づきの意識」では全くもってないと云うことです。

であるので、この真実の状態を、真実の次元に触れていない次元にいる私が、記憶でもって書いたり、話したりした場合はそれは結局は、正しい誤解、至高なる誤解・虚偽・嘘つきとなってしまう

それを話せることが出来るのは、あくまで実存として、そこの状態に、即ち絶対なる「今」にいる覚者だけである

結局は実存が問われているのである、魂のレベルが問われているのである。


それで今回の本題とは此処からである

現在の日本や世界の精神世界を見渡すと、神と話が出来る人はなんと数多くいることだろう

ワンネスの実体験をしている人は数知れずいるし、宇宙の記憶を持ったクリスタルチルドレンもこの日本だけでも数多くいる

しかし

ではその人とは、実際には一体どの次元にいるのだろうか、
その人の状態の、実際の表現である、肉体や環境に秩序があるだろうか、
その人の家庭や職場に、そして友人や親類に秩序が具現しているのだろうか

その人の実存の状態が、既に「気づきの意識」に達しているのであるなら、その人の回りの環境に秩序が絶対的に訪れていなければならない

その人の回りの環境こそが、その人を実際に反映している、中身なのである、内部は外部である。

もし、実際のこととして、その人がその非分離性・非二元性・全体性に到っているのなら、その人の親が、子供が、妻が、夫が、肉体が、環境が、調和して秩序が訪れているはずである。


また、その人がこの聖なる「見るものは見られるものである」の意識状態にあるなら

必ずや「自他の分離もなく」「「自我(エゴ)としての私」も既にない」のであるから、実際に他者の苦しみが自分のこととして知覚されるだろう、そしてその苦しみを正見することが出来るだろう。

けれども、もし、その人が「内部は外部であり」、「時間は存在せず」、「『永遠の今』の中にいる」状態であるにも拘わらず、外部と内部とを分離しているかのように見ていたり、敵と味方がいたり、善と悪があったり、ブラックとそれに対抗してのホワイトがあったり、世界や宇宙が自分の外にあると思ってそのように話したり、行動しておれば、そのことが即ち、その人がそこのレベルにいないことを暴露している。

けれど一番決定的なることは熟睡中の意識である
その人が熟睡中に「その熟睡している意識を観照している」のか、どうかである

その「至高なる非分離の意識」状態であるなら
私たち実存レベルの意識であるところの「眠り・夢見・顕在意識」の意識状態というものを、完全に気づいている「気づきの意識」であるはずであり、熟睡中もその「熟睡に気がついている覚醒している意識」であるはずである

即ち熟睡を見ているのである

誤魔化されてはいけない

神秘体験や、超知覚や、超能力や、癒す力に誤魔化されてはいけない、それは覚醒に付随して起きる「力」ではあるが
その「力」があるからといって、覚醒しているとは限らない。
それを人に示すものは覚醒していないと云われる。
真に覚醒しているものは人々を救うために、その力を、その人に気づかれずに行使している。
行使している人にとっては、相手の人は私自身であるとラマナ・マハリシは言う

そう言うわけで、対象として起こっている、それらの「力」が引き起こす虚偽の至高体験を「真の気づき」状態と取り違えてはいけない。

この「気づきの意識・空」に至るまでの過程に於いて起こる事とは
人の心が読めたり、テレポテーションが出来たり、物質化できたり、チャネルしたり、高次の存在とコンタクトしたり、UFOと接触したり、体脱したり、病気を瞬時に治したり、植物や動物と話せたり、願望を叶えたり、至福感をもたらしたり、また擬似的なワンネスの体験すらをも、もたらすであろう

が、しかし

その意識状態は薬物でも引き起こせる、
また外部からの方法で頭脳の条件付けが緩和した状態、外部から与えられた力で頭脳の一時的な改善された状態も引き起こせる、
又は○○○によって、引き起こせる
又はチャクラやクンダリーニの操作によっても、
又、覚者のそばにいることで一時的に味わうこともある
が、この状態は魂自体の変革ではなく、頭脳が影響され弄(いじ)られた事によって、一時的にもたらされた状態である。

しかし、その与えられた頭脳の状態とは決して決定的な戻ることのない、魂の実存の変革ではない。
従って、これらでは真の次元への魂の変革をもたらさない。

なぜなら、それらは熟睡時の覚醒をもたらしてはいないからである。

またそれらは、その「気づきの意識」の特徴である、至高なる慈悲と愛の発露をもたらしていないからである。

それらが仮に、頭脳に或る力が集中され、脳が弄(いじく)られた結果として齎らされたとしても、現在の私たちの実存は依然として同じ「自我(エゴ)としての私」のままであり「第1想念の私≒魂」の次元状態のままである、なんら変わっていないのである

この低レベルの実存状態の中にいて、色々と神と出会ったり、疑似ワンネスを体験し、神秘経験をしても、それが真実の覚醒という実存の変革(魂の変革)でないかぎりは

真実の言葉である「我は神なり、全ては一つなり」を口にすることは「正しい虚偽」となってしまう、正しい真実ではあっても話すことは嘘になってしまう。
これは「見るものは見られるものである」の実存ではないからである。

結局は「主体は客体である」「あなたは私である」ことを実感していることが決めてとなる。平たく云うと「慈悲・愛」が決めてとなる
「見るものは見られるものである」とは「愛」であるからである。


それを、自分自身の言葉として、この私の実存の中から表明することが出来るためには

肉体の死ではなく、「自我(エゴ)としての私」の死を、そして、その後に続く「第1想念の私≒魂」の死を経ていなければならない、と云われる。

それこそ、秘教システムにおいて言われる、「第2の死」、「第3の死」という至高なる磔・十字架であり(肉体の死は、死ではなく、最悪の自我の継続をもたらしてしまう場合が多いのである)真の私の復活である。

この復活が起こるためには「死」が起こらなければならない、私が死ななければならない。だから「死」は愛であるとも云われている。

グルジェフの言うように「自我(エゴ)としての私」が死ぬことが出来るためには、その前に覚醒がまず始めに起こらなければならない(具体的なプロセスは百人百様であると言われているが)

そして「自我(エゴ)としての私」を超えて、更に、「第1想念の私≒魂」としての死が起こるためには、この覚醒した目でもって、それらの第1想念の私を照見しなければならない

と言うことである

私の友人の「魂は存在しない」という言葉を、実存で話すためには、此処までのプロセスを経ていなければならないのであるにも関わらず、覚者方の言葉をこの自我の次元で安易受け取ってしまうことの危険性ということに、私たちは充分に気がついている必要が有るのではないだろうか

結局はクリシュナムルティーが死ぬまで言い続けてきたことに戻ってきてしまうのである。


それは自己変革の唯一の方法、私は存在していないと断言できる為の唯一の方法

それこそが

「あるがままをあるがままに見る」事である
(これは最高度に難しいことであると言われている)

内部と、そしてこの内部の投影である外部を、同時に言葉なくして曇り無く、私なくしてあるがままに見ることであると言われる。

あるがままとは「自我(エゴ)の私」であり、その虚偽であり、
その自我の目的であり、その動機であり、その願望であり、
書いている現在も、このパソコンで実際に活動している私と言う想念形態をである。

その「自我(エゴ)」とは、魂(第1想念の私)がマインド(時間及びその二元性である、主体と客体の分離)に触れて、それに覆われた結果として、『自分は肉体であり、肉体として生存しており、他人とは分離しているのだ』という錯覚が生じ、この錯覚が記憶として凝固した想念体である

即ち、この「自我(エゴ)」とは自分は肉体だ、個人だ、人格だという錯覚である記憶であり、その記憶の凝固した想念体である

しかしそれは「第1想念の私≒魂」ではない、この魂とは真我から派生してきた「真我の想念」であると言われており、この第1想念・魂の記憶の凝固体であるところの自我ではない

魂にとっては、更により深き所にある「第1想念の私≒魂」をあるがままに見る事が求められている、魂自身である、魂のあるがままを魂が見る事を求められている。

この魂の私こそが、内部は外部であるにも拘わらず、外部の出来事といものを、自分とは関係なく客体として(対象として)あたかも実在していることのように錯覚し、結果として、自分が他者から分離している個人だと思い込み、
魂の根源は既に完全であるのに、良くなろう、良くしよう、何かに至ろう、神に至ろう、世界を救済しなければと行動する本体である私のことである、と言われている。

世界とは、宇宙とは、私の外部に有るのであろうか、それは「第1想念の私≒魂」の根源が脳内に投影している映像ではないだろうか、
(此処では従来の時間空間の認識方法は役に立たない、3次元的認識は全く意味を成さない)

映像を良くするには、脳内で映像を投影している「第1想念の私≒魂」の根源を直視する必要があるのではないだろうか、

そしてこの「第1想念の私≒魂」は絶対に「今という気づき意識の状態」に入ることが出来ない、「今」の次元に貫入出来ない。

何故ならその「第1想念の私≒魂」こそが時間そのものであり、マインドであるからである。これは死ななければならないのだ。

「第1想念の私≒魂」、又それは集合意識でもある。集合意識としての私でもある。

この究極の「第1想念の私≒魂」をあるがままに正見し、その根源までたどり着いたとき、この「第1想念の私≒魂」は存在していないといわれている

ラマナ・マハリシは「自我(エゴ)としての私」は存在せず、「第1想念の私≒魂」も存在せず、真の私のみが今此処に在ると言われております

「あるがままがあるがままに在る」とき、そのとき何事も起きていないといわれる

しかし、私たちにとってそれを言うことが出来るためには

超努力が必要である、超努力を行うためには、超努力がこの個体に、この魂に起こる必要がある

「努力は必要ではない、それは邪魔である」という境域に達するためにはその前に超努力が為されている必要が有るのではないでしょうか

では、その超努力とは何だろうか

それこそ

「自我(エゴ)としての私」であるところの、このあるがままの私を、私の刻々の動きを、私自身として分離なく見る事

その自我(エゴ)の苦しみと不安と悲しみとを、それを私自身として、「見るものと見られるもの」との分離なく見る事、

愛情を持って受け入れ、それに耳を傾け、じっくりと「自我(エゴ)としての私」の言うことに傾聴することである、と言われている。


さらに同時に、「第1想念の私≒魂」とともに、意識の座にやってきている思考や想念や感情をも、「自我(エゴ)としての私」に対してと同じように、

その中に入っていき、

言葉なく、動き回る眼球の動きもなく、ただただ聞き入ること、見入ること、同一化することなく拝聴し、一緒にそれを味わい

私がその苦しみと悲しみそのものであるとき、そこに大いなる慈悲と、智慧が生じているとクリシュナムルティーは言われる


そして、

更に自己に深く沈潜し、進んで行き、「第1想念の私≒魂」という個人ではない人類全体の「苦しみ」「悲しみ」の根源に到達し、

それを観察者無く見、見られるものを自分自身として凝視するとき、

そのまさにその時こそ「大いなる慈悲」「大いなる智慧」がその見る事の中に生じていると言われる

それこそがラマナ・マハリシの言う「第1想念の根源に至るとき、それは存在していない」、「私は在る」

という「私は誰か」の回答が起こるところであると思われます。

これこそが自己変革の方法であり

この正しい自我観察(曇りなく敏感に、集中せず注意し、言葉なくして「自我(エゴ)の私」をあるがままに見ること)の実践

そして更に進んで

自己想起(内部と外部を、時間と分離を生み出してる「第1想念の私≒魂」である私を思考なくして受動的に凝視すること)の実践

を絶え間なく、いかなる時も、いかなる所でも行うことの中にこそ

そして、そこに於いてのみ

思考の創った静寂ではない、真実の静寂が訪れ、その沈黙と静寂の中に、あの名付けられない未知なる状態がそっとそこにある

とクリシュナムルティーは言われているのではないでしょうか。







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