私ではないもの、偽我とはなにか
この私ではないものを私ではないと知ることが、真の自分に出会うためには絶対に必要だと思う
真我である真の私がこの「意識の座」にて意識される為には
私ではないもの(偽我)がこの「意識の座」から去らねばならない
そして
贋の私が去るためには、まず始めに真我が訪れなければならない
真我がマインドをこの「意識の座」から駆逐するのだ
この「意識の座」という永遠のパーソナリティー又は観照者の座と言われているものはなにか
この「意識の座」とは輝く真我の無限太陽の空間にあって、丁度それは黒い厚紙にぽっかりと空いた開いている穴、とも想像できる
この「意識の座」という開いている穴を覆い尽くしているものがマインドであり
この
マインドを、この開いている穴から去らせるためには
一体何が必要なのかを、一緒に探求していきたい
また誰が、何が、この覆っているマインドをこの開いている穴という「意識の座」から去らせるのか
それは、
この「意識の座」という穴に、マインドという無明を被せたものが、そのマインドを去らせるのだと思う
それはこの「意識の座」そのものであるもの
観照者という真我こそが、このマインドという「意識の座」に被っている覆いを取り去ることを行うのだと思う
それはこの観照者である「意識の座」に「起こること」だと私は思う
その覆っていたマインドが取り去らわれることが、である
ではその為にはこの偽我には何が必要なのか、何を求められるのか、何をすべきなのか
真我により観照者であるその「意識の座」に罹っていた覆いであるマインドが取りさらわれるためには
何が必要か
それは
@「本当の私が、この偽我である私にやってくること、を熱心に求めること」
そして
A「偽我である私がこの偽我の正体であるものに気がつくこと」
即ち
私でないものに気がつくことだと思う
この二点が絶対に必要なことではないだろうか
では始めの一点であるが
果たして
「本当の私を、この偽我は求めている」のだろうか
現在のこの意識している私達は偽我である
私達の現在の内部であるもの記憶、思考、想念、感情や知覚や感覚は偽我そのものである
なのに
偽我が「意識の座」を覆っていて、自分と錯覚している
そして偽我が、偽我であるこの自分の欲望の成就を願っているのではないだろうか
私達はこの偽我である自分が成就することを、悟りを願っているのではないだろうか
だが、マインドが創り出したこの自我というものが、果たして悟ることが出来るのだろうか
二元性と自他の分離であるものが、どうして非二元性、全体であることができるのだろうか
分離という「愛でないもの」がどうして、全体という「愛であるもの」であるのだろうか
私達は本当に、「本当の私・真我」を熱心に求めているのだろうか
偽我である、この肉体環境の安寧や健康や富や幸福、安定を求めているのではないだろうか
自我(エゴ)の満足を求めているのであり、真我ではない
このように
ほんとうには、「真我という真の私」自身を、偽我であるこの自我(エゴ)が求めていないのに
どうして、真我は「意識の座」に現れることが出来るだろうか
この「意識の座」を覆っている自我(エゴ)のマインドの周波数が上がり
その「意識の座」そのものである観照者の周波数と同調できるようなレベルに近づかねば
同調現象は起こらないとおもう
それなのに、どうしてこの「意識の座」に「気づき」という真我からの全体性の意識がやってくることが出来るだろうか
さて、もう一つそれと、同じく
重要な事は
前述したこと
即ち
偽我を偽我と見ること
自我(エゴ)を自我(エゴ)と見ること
私ではないものを私ではないと見ること
私の内部を「真の私」ではないとハッキリと見ること
即ち
虚偽を虚偽と見ることだと思われる。
それは
真の自分を覆っているマインドという自我(エゴ)である
このマインドの意識と内容、その実体と本質を看破することである
それに気がつくことである、と思う
私ではないとハッキリと分かることだと思う
真我が自己体験するために現象界を創り
マインドを使用して偽我を創り出した
転生する個人という想念実体はマインド素材であり
実体は存在しないもの、
時間と空間の分離という、単なる想念、概念である
それは真我が現象界で体験するためにを創り出したマインド凝縮体である
では
この自我(エゴ)の本質であるマインドとはないか
この実存であるマインドとはなにか
それは悟ろうとすること
良くなろうとすること
非二元性、非分離性、全体性を獲得しようとすることだ
と思う
本当の愛の状態、本当の平安の状態、本当の一体の状態、本当のワンネスの「われはそれなり」を
マインドは得たいのだ
それではないからだ
しかし
マインドの本質そのものが自他の分離であり
二元性そのものであるので
「見るものは見られるものである」を理解することは出来ないのだ
だから
それを得たように錯覚し、繕うのだ
多くの意識界に於いて
多くの宇宙界に於いて
そのように芝居をするのだ
それが
贋の愛、贋のワンネス、贋の平安、贋の実相体験、贋の悟りである
私は質問したい
本当の愛ならば、どうしてその愛の中で、個人というそれを自覚し(愛されるものと愛するものの分離思考の結果)、
そのことを観察している個人が存在しているのか、
愛とは愛する私が全く何処にも存在していない状態のことではないのか
愛していることを自分が知っているとき、どうしてそれを愛といえようか
それは本物の愛ではなく、マインドの創り出した疑似愛であるのだ
「右手のしたことを左手が知っている」とき、どうしてそれが愛といえるだろうか
本当のワンネスならば、どうしてそこに見るもの、と見られるもの、観察されるものと観察者、
愛する人と愛される人、体験される事と体験する人の分離・区別があるだろうか
また本当の平安ならば、
どうしてそこに空間や時間という観念が存在し、
平行宇宙や、他の宇宙・銀河そして、その空間という自分とは別の、自分の対象である空間や宇宙という
概念自体が
あることが出来るだろうか、
真我である「真の私」は宇宙の空間全てに遍在し、あらゆる宇宙の星々の、そこにいる意識体や神、全ての生命、非生命そのものであると言われているのに、
宇宙の方々や神と、自己を分離した存在、と錯覚したり、別々に思うこと自体
また、
自分と守護霊や守護神を別々に分離した存在と錯覚していること自体が真の平安ではないことを示している
また本当の悟り、実相体験であるなら、
それはマインドから見ればやってきたことの様に思われるけど
その「気づき」という意識に於いては、その「悟り」は最初から在ることであり、
実相体験をしたり、悟ったりしたと、又は達成したと、思う本人が存在していると思うことこそ、最大の錯覚ではないのか
本当の悟りや、実相体験では、そこにはそれを悟ったり、体験したりする自己は最初から存在していなかったのではないのか
その悟りや、実相体験の中では、
それそのものが非分離性、非二元性、全体であり、全てであり、宇宙にあまねく遍在していて、
これなくしては、宇宙の全ては一瞬も存在できない根本であり、
あらゆる時間に存在している「いま」であり、
此処には本当の愛、本当の神、そして、本当の全体の私が歓喜と平安にあるのであるといわれている、
従ってそれを認識するというマインドの機能がその状態の中には
微塵も存在していない、のではないだろうか
なので
悟りの中には悟ったと思考する「個人やマインド」は存在しないのだ
従って悟ったとは「思わない」のだ、そこにはマインドが無いからだ
マインドがある限り「悟った」と自我(エゴ)が錯覚し、そう「思う」のだ
それは悟りではない
それは、マインドによる、ある疑似体験をそう錯覚し、自我(エゴ)が信じているだけだ
であるので
マインドである私・観察者がそれを体験したり、自覚している限りそれは、
いくら似ていてもマインドの創り出している意識界の幻想といえるのではないだろうか
高度に現象界で進化している他の宇宙や惑星や恒星に住んでる方々や、
高次の意識界の方々も、この本当の真我の状態を垂涎の眼差しで見つめておられるという
現象界というマインドの宇宙や意識界でいくら進化しても、いくら階段を上り詰めておられても、それはマインドの範疇内のことであり
即ち悟りを開いておられるわけではないので、
宇宙の方々や高次の次元の方々も、全てが非二元性のレベルであるとはいえないのだと思われます
このアセッションが近づいている昨今
私たちのレベルに応じて、
即ち私たちの持っている「眼」に応じて、
その眼のレベルに応じた次元の世界や人々、環境が私たちの前に出現してくるのだとおもいます
逆に言えば自分の「眼」に応じたものしか、世界も宇宙も、そして他人も神もを見ることは出来ないのだと思います
だからこそ
虚偽を虚偽と見ることが急務なのです
私ではないものとは何か
偽我とは何か
それは
この実存である、現在の意識している私そのもの、
この私の内部、そしてマインドが創り出した私
マインドによって創られ、輪廻転生している想念の固まりである私、
この自分を自分と錯覚して悟ろうとしているマインドの自分
体験者、経験者、自他を分離してみる観察者、見る疑似主体
意識している個人、実体、過去世の人格・ワサナ、しゃべり続ける多くの自我(エゴ)
神と自分を分離していると錯覚している自分
キリストと自分を別の存在と錯覚している自分
既に神であるのに神、と一体になろうとしている自分
全体そのものであるのに自分がこの物質界や幽界・霊界、宇宙界、次元界などという現象界にいると錯覚している自分
この条件付けられた感覚や知覚に縛られている自分
頭脳を経由した条件付けられた知覚や思考に縛られ 自由を失っている私
この意識の座にやってくるもの、
内界での対象である自分とその中身である
感情、意識、欲望、傾向、願望、想念、、思考そのもの
内部にあるもの
見る対象が自分の中でなく、外にあると錯覚している自分
過去、現在、未来という分離した時間があると錯覚しそれを区別している自分
子供や親を見るとき、自分とは分離していると錯覚している自分
空間や宇宙を外部にあると錯覚している自分
宇宙のエルダーブラザーを自分とは別の存在と錯覚している自分
外部と内部の分離があり、自分が世界そのもの、自分が宇宙そのものであること、
自分の中に世界と宇宙があることと知らず、
自分が見ることそのものであると分かることが出来ない自分
自分を他人とは分離している個人であると錯覚している自分
私は高次の愛そのものであるのに私に「愛」がないと思っている自分
全てが一体であり、ひとつなのに個人や人格が有ると思っている自分
自分や他人の個人があると錯覚して優越感や劣等感に支配され、高慢や卑下したりする自分
自分が霊魂であると錯覚して、輪廻転生して、そうして最後に神と合一するといると錯覚している私
既に神であり、全体であるのに自分を神ではないと錯覚し、それを求めている自分
記憶である自分、記憶が作りだしている自分
想念である自分
感情である自分
思考である自分
知性・理性である自分
マインド・心である自分
肉体と同一視している自分
エーテル複体やアストラル体など高次の諸体と同一視している自分
真の自分は宇宙の一点も隙間無く遍在しているのに
自分が宇宙のどこか、
ある一定の空間を占有している存在と錯覚している自分
自分は遍満する「霊」そのもの、全体なる「宇宙意識」そのものであるのに、霊体や高次ボディーだと錯覚する自分
過去、現在、未来のあらゆる時に、ところに全て遍在しているのに、
生まれた、そして成就した、死滅したと。
ある時間の中に存在していると錯覚している自分
以上の自分とは全てマインドが作りだした偽我であり
真の私ではない
とそう思われる