気づきが気づいている

私のマイミクの友人クウさんからの素晴らしい気づきの体験の便りがありましたので、本人の了解を得まして皆さんと、

この喜びをシェアしたいと思います



久保様

お久し振りです 

日記読まさせていただきました 



実は私も20代のころからクリシュナムルティーの

いう「見るものは見られるものである」ということがどういう

状態なのか、づーと疑問でした。 何度本を読んでもわからずにいました。

それがたしか去年の9月ころだったと思います。

いつものように瞑想していて、

ふと「見るものは見られるものである」ってどういうことなんだろうと頭に浮かんだのです。

 しばらくそのことが頭にありながら瞑想していたら、   

 自分が内側に引っ張られるような感じでどんどん内側に入って

 行かされたら、突然見るものと見られるものが一つになったのです。

 もっと正確に言うと見ている人がいないのです。消えてしまったのです。その状態はほんのわずかの時間でした。

 瞬間的に「無我って我は無し」って書くじゃないか!と驚いたのです

 この当たり前の言葉を知っていた前の理解とこの体験後の理解が

 私の内側ではとてつもない理解の差になりました

 まさに無我という言葉が私の中で生命を得た瞬間のようでした

 その次に禅の問答で「花瓶からガチョウをどうやって外に出す?」という問いに

 答えは「ガチョウは出ていた」というものがあります

 この問答聞いたときもどういう意味だかさっぱりわからず

 しばらくこの問答忘れていました。

 そのガチョウ問答が頭に浮かんだら「そうだ ガチョウは 最初から外に出ている」

 とこれまた妙に納得したのです。

 花瓶の中のガチョウ、外に出よう外に出ようともがき苦しんでいた偽りの私がきえたら、 
 
 そうです そこには誰もいないのです。

 しかし不思議なことにだれもいないのに最初から外にいたという解放感感覚があるのです。 

 ただただ自由で解放されていたのです。

花瓶の中には入っていなかったのです。

なんかうまく伝えられませんが、とにかくこの時はこれらを瞬時に体験したのです。

 補足ですが、この時の体験から「我は無しと無限の我」は違うのかですが 答えはイコールだと思います 

見る角度が違うだけだと

思います。



 多分今まで偽りの私を抱いていた人がそれがなくなると我無しと感じ その状態がなれてくると

無限の我というものを認識しはじめるかもしれません これはあくまで私見です。

 

 そして私がいない、誰もいない状態ではなにがそれを認識するのかというと疑問が私には前からありましたが、

 それは「気づき」が認識するのだと思います。

 「ああ だから覚者は気づき、気づきというんだな」とこれまた理解が体験に変わりました。 



 ただこの状態は瞬間に消えてしまいましたが、あの時の理解がはっきり今も体にあります。

そして「見るものは見られるものである」が何十年も謎で毎日毎日あけても暮れても考えていたことが

わかった瞬間でした。



 そしてクリシュナムルティの本や覚者の方の本を読むとの体験がそのまま書かれているではありませんか!!



 久保さんがいわれるように悟った人はみなその体験を素直に語っているではありませんか!



 私たち、現代人はあまりにも多くの知識が入りすぎて、なにか切り口が変わった教えでないと新鮮味を感じ

な くなってしまっていた。

 そのため覚者の言葉の深い意味をそしゃくできなくなってしまっているように感じました。

 そうかあ 素直に読めばいいんだ と自分自身納得しているところです



 すいません なんか 久保さんの日記読んだら私と同じ体験されていらっしゃったので、

(久保注:私は頭だけで、実はそんな素晴らしい体験はしておりません)うれしくなってながなが書いてしまいました





   −ここからはこの記事に対しての私の返事とそのやりとりです−

   誰がそれを認識しているのかという点で


久保:

クウさんが、「気づきが気づき自体を認識している」
   
私もそうだとおもいます
   
それを
   
誤って「意識の座」であるとか
   
輪廻している主体が、魂がそれを認識しているというと
   
おかしくなってくるのだと思います




クウ: 

すみません「意識の座」とかどういう状態を指すのか
    
わかりませんので、なんともいえませんが、とにかく
    
普段、私たちが認識している主体というものにはもっと
    
多次元的な香りというか言葉を超えた神秘的なものがあるのだと感じます 

私たちはマインドに縛られているので、マインドから

自由な、マインドの外に出れる、覚者が語ることを私たちが理解しようとしても、未知のものを理解できない

マインドには自ずと限界が

あると思います。

久保:

良く 上江洲義秀先生は「神の御名は“わたし“である」と言っています

私が思うには

それに出会うには、この現在のマインドの自分を門として

自分の根底まで深く進んで行かなくてはいけないので

結局、自己探求が、真我探求でもあり、それが神との出会いにもなっているのだと思っています



クウ: 

そう思います 私という感覚を通して、内側奥深くへ進んでいくだと思います。 ただ、問題は私たちは、あまりにも

私という感覚と、感情、思考、出来事とすぐ同化してしまい、

10分も私という 感覚を何ものにも同化せずに保つことができないということではないでしょうか? 

これはグルジェフが自己想起を強調した理由だと 思います。

 

久保:

クリシュナムルティーも言っているようにその全体性そのものは人格でも神格でもなく、それを超えているのだと、
   
従ってその状態は、全体性の中で「I AMが神」という中で、私達の計り知れないコミュニケーションが沈黙の中で

行われるのだと思います

その状態が上江洲義秀先生の状態であると 私は思っています

クウ:
 
そう思います ハートが開くということ一つをとってもその神秘さは世の中の芸術を越えた神秘さ、

生命の神秘さそのものです その神秘さゆえに誤解を招きやすいのですが「神」という言葉が一番ふさわしいのだと思います



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