シャンカラの私

シャンカラは以下の様に
岩波文庫の「ウパーデーシャ・サハスリー」の中で語っている
シャンカラの私とは、真我であり、アートマン=ブラフマンである


「私は目がないから、私は見ない。
同様に耳のない私がどのように聞くことがあろうか。
言語器官を持たないから、私は語らない。
思考器官を持たないから、どうして思考することがあろうか」


「私は生気を持たないから、行為しない。
統覚機能がないから、認識主体ではない。
それ故に明智も無明もない。
私は純粋精神のみの光を持ち、つねに解脱しており、
清浄であり、普遍であり、不動であり、常に不死であり、不滅であり、身体を持たない」


「虚空のように一切に遍満する私には、餓えも乾きもなく、憂いも迷妄もなく、老衰も死もない。
身体を持たないから」


「私は触覚も持たないから触らない。
味覚を持たないから味わう事がない。
恒常的な認識を本性としているから、私には決して認識したり、認識しなかったりすることはない」


「混乱した視覚によって、全ての人々は自分は混乱していると考え、
清浄な視覚によって自分は清浄であると考える。このためにかれらは輪廻に赴くのである」


「眼が覚めるまでは夢は真実であるように、
アートマンの智慧が得られるまでは、身体とアートマンの同一性は真実であり、
直接知覚などが知識根拠であることや、日中の覚醒状態も真実であると言える」


「アートマンは行為の主体である、という観念は、
身体はアートマンである、という観念に基づいているから誤りである。
私は何もしていないという観念は真実であり、正しい智慧である」


「君は最高我であって、輪廻しない。
それにも関わらず『私は輪廻しています』と言って正反対に理解している。
また行為主体ではないにもかかわらず『私は行為の主体である』と、
経験の主体でもないにも拘わらず『私は経験の主体である』と、
永遠に存在するにも拘わらず『私は永遠には存在しない』と、そのように正反対に考えている
−−−これが無明なのです」


「若し無明が再び生じないならば、
「私はブラフマンである」という認識が在るのに、
「私は行為主体である」
「私は経験主体である」という観念がどうして生ずることがありえようか」


「カルマは「私」という観念を種子とし、
「私」という観念の主体である「統覚機能」の中に在るから
「私は行為の主体でも経験の主体でもない」という観念の火によって焼かれたならば、
カルマは如何にして果報を生むことが出来るであろうか」


「カルマは身体などを造ることが出来るから、
君に有るブラフマンに関する知識を押さえて、カルマの果報を生むことが出来る。
カルマが尽きればブラフマンに関する智慧があらわれるであろう」


「身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの智慧を持ち、
その智慧が、身体はアートマンであるという一般の人々が持っている観念と同じほどに強固な人は、
望まなくても解脱する」


「統覚機能が純粋精神の映像によって遍満されるとき、
統覚機能に意識が生じ、
音声を始めとする外界の対象が現れる、
このために人々は惑わされるのである」


「統覚機能にのぼった一切のものは、認識の起こる全ての場合に、常に私によってみられる。
それ故に、私は最高ブラフマンであり、私は全知者であり、一切に遍在している」


「私自身、純粋精神を本性としている。
おー意(統覚機能)よ。私と味覚などとの結合は、おまえの混迷に由来するものである。
それゆえに、お前の努力によるいかなる結果も、私には属さない」


「幻影から成る活動を捨て、非存在を求める努力を止めて、常に安らぎに到れ。
私は常に最高ブラフマンであり、解脱した者のように、不生にして唯一者であり、二元を欠いているから」


「そして常に私は一切の生類にたいして、平等なる絶対者である。
虚空のように、一切に遍満し、
不壊であり、吉祥であり、中断することなく、分割されず、行為しない最高ブラフマンである。
それゆえに、おまえの努力から起こる如何なる結果も私には属さない」


「虚空が、風や他のものが生起する前には一切に遍満しているように、
私は常に唯一者であり、一切万有であり、純粋精神のみであり、一切に遍満して、不二である」


「ブラフマー神をはじめとして植物に到る一切の生物は、私の身体である」


「一切の生類の統覚機能は私の純粋精神によって照らされるべき対象であるから、
一切の生類は、一切智者にして悪を持たない私の身体である」


「熟睡状態に於いては認識以外の何者も存在しないので、認識主体の認識は永遠である。
しかし、日中の覚醒状態における認識は無明に基づくものである、
それ故に、認識対象は実在しないと考えられるべきである」


「見=純粋精神を本性とし、
虚空のようであり、常に輝き、不生であり、唯一者であり、
不滅であり、無垢であり一切に遍満し、不二である最高者ブラフマン
それこそが私であり常に解脱しているオーム。」


「私は清浄な見であり、本性上普遍である。
本来私には、如何なる対象も存在しない。
私は前も横も、上も下も、あらゆる方角にも充満する無限者であり、不生であり、自分自身に安住している」


「私は不生・不死であり、自ら輝き、一切に遍満し、不二である。
原因でも結果でもなく、全く無垢であり、常に満足し、それゆえ解脱しているオーム」


「熟睡状態にあろうとも、
覚醒状態にあろうとも、
夢眠状態にあろうとも、
この世に於いては、自分のもので有るかのように人を惑わす知覚は私に存在しない。
これらの三つの状態は独立した存在でもなく、他に依存する存在でもないから、
私は常に、この三つの状態を超越した、第四位のアートマンであり、常に不二の見である」


「身体・感覚器官から起こる一連の苦痛は、私のものでもなければ、私でもない。
私は普遍であるから。
なぜならこの一連の苦痛は実在しないからである。
これは実に夢を見ている人が見ている対象のように、実在しないのである」


「私には変化も変化の原因もない、ということは真実である。
私は不二であるから。
私には善行も悪行も、解脱も束縛も階級制度もない。身体を持たないからである」


「わたしには始めもなく、属性もないから、私には行為も、その行為の結果もない。
それゆえに私は最高のアートマンであり、不二である。
虚空が一切に遍満しているのに汚される事がないように、私も身体の中にありながらも汚される事がない。
微細だからである。」


「私は不二であるから
日中の覚醒状態にあっても、熟睡状態にあるときのように、
実際には二元を見ておりながら、二元を見ることもなく、
また同じく、実際には行為しながらも、行為しない人。
その人がアートマンを知っているものである。」


















戻る