自己責任を果たそう
在る状況の時、突然姿を現すもの、それが、私の影、私のワサナ、わ・た・し、(潜在意識に潜む自身)
しかし、そこにタイムラグが生じて
一瞬後に気がつく、そして出会いが延期される
それは蛇や化け物を見たときのように、条件反射で逃げてしまうからだ
それでは、駄目だと言われて最高度の警戒「注意」をしていても、一瞬間、後に、それに気づく
恐らく、それは、私が隠そう、逃げようとしてきた、自分の見たくない部分、否定し続けてきた「私」自身であるから
であろう
それから逃げよう、避けよう、無視しようとしているかぎり、それに自分は支配され続けている
その名は、「ワサナ」、私の記憶の傾向、性向
過去世からの積み重ねてきた自分そのもの、私自身、私の暗部、私の暗闇、私の潜在意識
そして、それが私に、有るキッカケで、有る条件が外部に揃ったとき、突然やってくる、「外部からの挑戦」への
反応として、それに出会ったとき、わたしたちはかならず、それを無視する
そして、私(この現在の人格)は逃げる、
もしくは、「これは自分ではない」と言い聞かせ、ともかく何とか回りに分からないようにし、それと正反対の自分で
或るように仮面を付け、取り繕う
それの支配から逃げようとするが、それは私自身でもあるので、逃げようとすればするほど自分の影のように
後を追いかけ、自分を支配する、逃げようとすることがそれ自体の本質でもあるのだ
現実のこの人格の自分は、それに影響を与え続けられ、それに、この自分が支配され、行動も意識も支配され
ているであるので、このワサナの想念が顔を出したときは
このタイムラグを無くし、それが表面の意識に昇ってきた、そのとき瞬間に、避けることなく
ただ一人きりで、それを抱きかかえ、もてる限りの愛情を注いで、静かに「見る」ことが必要だ
これこそ自己責任である
だからその潜在意識が現れたときは
じっと傾聴する、真剣に、非難せず、批判せず、比較せず、分類せず、名前を付けず、ただ黙って傾聴する
「その私・ワサナ」の言うことに、全身で耳を傾ける、そのワサナの言うことに耳を傾ける、じっと見る、静かに
それは私自身なのであるから
それは大変なことだ、と思う、相手は一番見たくない自分自身だからだ
私の場合、昨日もそれはやってきた
恐らく、ゴキブリや、おなかの赤いムカデや、気味の悪い蛇の方が、出てきたのよりもっとましだと思う
それは、もっと化け物だ
なぜなら、それは、今まで抑圧し、避けて否定してきた想念であり、感情であり、言葉では把握できない、思念を
持った人格であり、傾向や性向であるものであり
その中身は、無理に言葉にすれば、恐れそのもの、不安そのもの、そして自己顕示欲、憎しみ、悲しみ、暴力、
寂しさ、破壊、苦悩、プライド、高慢、自己関心、苦痛、蔑視、尊大、不遜、優越感等々の想念それ自体である
それこそワサナそのものであり、私の過去世からの積み重ねてきた想念であり、記憶の固まり、願望、衝動、
欲望、情念であり、暗部そのものなのである
それが潜在意識であり、私を支配して、真我の輝きを覆っているもの、そのものだ
しかしそれは、実は私そのものでもある
昨日の私の場合は、突然、潜在意志、潜在意識が出てきた、ひょんなキッカケで表に出てきた
いつもだとそれは恐怖や不安であるのだが、昨日のそれはプライドだった
通常は、私はそのプライドという劣等感に基づいた優越感、人より先に名前を呼ばれること、世間に認められる
こと、トップに立つこと、表彰され有名になること、素晴らしいと思われること、尊敬されること、慕われること、
愛されること等のそれらのその潜在意識があるので、私はそれを隠して、プライドが全くないように見せかけ、
有名になることを求めていない、欲のない自分だと自分にも回りにも見せかけ、生きてきている
回りにも、そのような有名になることや、名前が知られるようになり、偉いとおもわれるようなことを求めていない
実直で愚直に生きているように見せかけ、仮面を付け、自分自身にも、そう思わせ、表彰やランクや順位などに
全く拘泥していない、この俗界に関心がないように自分に思わせてきたが、
そのワサナは、潜在意識から、いきなり表面意識に昇ってきた、
その自分は、今までつけてきた「無欲で、俗界の名誉などには関係ない私」という仮面をいきなり、内部から
突き破って登場してきた
それが私のワサナであり、人格である私自身、個人、そして真の私ではないものである
しかし、これが表面の意識に現れたときに、即座の反応として、私はこれから逃げるために、そして逃げたが
為に支配され続けてきた自分がそこにいた、
そしてそれを自分ではないと思いたがっていた
けれども実際は私とは、この自身の影から逃げることは出来ないのだ、これに支配されてしまうのだ、
直に正見しない限りは
しかし、それがどんな化け物であり、醜くとも、蛇やゴキブリやムカデより気味の悪い想念実体であっても、
それは、私自身なのである
影から逃げることは出来ない、影を影と見ることだけが、影から解放される
だから影を見ることだと、覚者達は、その事を力説し強調しているではないか、「闇を闇と正見することが
光である」と
ただ一人、じっと静かに座り、その私自身と正面から向かい合い
それらの自分達の言うことに、ただただ耳を傾け、聞いてあげること、そして見ること
ワサナを、
真っ正面から見ること
そして、それらを
愛すること、愛でそれを包むこと、それは過去世で積み上げてきた私自身の想念であり記憶であり、
私自身なのだ
この作業は大変だと思う
しかしこの作業を、飛ばしたり、省略したりは出来ない、自己が果たすべき自己責任なのだから
いくらディクシャをしても
いくら真我に瞑想しても
いくら私は神であり、ワンネスであり、光そのものだと「思って」も
いくら神に祈って、たとえ、それが訪れたとしても
これだけは自分自身でやらない訳にはいかない
これこそ自己責任である
これなくしては、ほんとうの真の解放はない、ほんとうの真の真我実現はない
このワーク「あるがままをあるがままに見る」ということは
46時中、警戒態勢にいて眼を見張り、タイムラグ無く、この自我(エゴ)を注視する作業を行うことである、
これこそ瞑想である
クリシュナムルティーはいう
闇を光だと「思い」「思考し」、その闇に捕らわれることを止めよ、その光は闇に過ぎない、と
闇を闇と正見するとき、そのとき、それが光そのものであり
その闇を闇と見ること、そのことが光そのものである、と
いま、精神世界を見渡すと、自分自身から逃避することによって、逆に自分自身に捉えられ、束縛され、
支配されているにもかかわらず、自分は人々を愛している、世界と宇宙に、光を発信していると錯覚している人
のなんと多いことか
その光は闇であるというのに……、闇を光と錯覚しているに過ぎないのに…
自分は天使であり、世界の平和とアセッションに貢献している、と錯覚している方のなんと多いことか
真我探求と称し、闇を光と錯覚し、その闇にとどまっている方のなんと多いことか
いくら、良い体験をしても、自分自身から解放されない限りは、闇は晴れない、
光は求めずとも最初から既に在るのだ
光を求めること自体が、光から遠ざかる行為だ、それは闇が起こしているのだ
それは光を求めていると、そう思いこんでいるにすぎない錯覚なのだ、実際は自身の闇から逃避しているに
過ぎない、
だからその光を求めている、その姿は滑稽なのだ、端から見ていると、ピエロであり道化のように見える
人格である仮面を落として、直に現実の自分であるワサナに直面せよ
そして自分を静かに、じっと凝視し、見据えるのだ
これこそ本当の光の行為なのだ、これこそ闇を闇と見ることが光の行為なのだ
だからその闇を
恐れてはいけない
逃げてはいけない
それは、私自身であるからだ
そして、このワーク無くしては
真我の実現はあり得ない
なぜなら真我とは、自己からの解放であり、自己脱落そのものであるからだ