記憶を凝視し、味わうこと
記憶を味わうこと、見ている私と分離せずに味わうことは大切なのではないだろうか
記憶と同一化することなく、非難することなく、それを見ている私自身として凝視して、そして味わうこと
味わい尽くすこと
何も選ばず、好まず、拒否せず、名前を付けることなく、非難せずに、言葉を使わずただ感じること、見ること
喜びも悲しみも、苦しみも、希望も、絶望も、いやらしさも、崇高さも、失敗も成功も、良いことも悪いことも
全てを味わうこと、味わい尽くすこと
ガンガジは「ポケットの中のダイヤモンド」でそのことの重要性を説いている
そしてマクドナルドベインは「キリストのヨーガ」の中で
その見ること、味わうこと、観察する事の重要性を
「思考が頭をもたげるところから観察し始めるとき変性が生じる」と言われている
この実践の中で「思考する人がいるのではなくて思考だけがある」との気づきが起こると言われている
思考の蓄積、即ち記憶が私・自我の正体であり、輪廻している私の実体ではないだろうか、
この自我とは記憶である、条件付けである、プログラムである
この私・自我とは、実は私と言う主体ではなくて、思考であったという、
この自我とは主体ではなくて、主体を作りだしている思考だけが
私という自意識を伴った思考だけがあったと言うことである
そのことが了解され始めるとき、変性即ち蛹が蝶に変身するように、主体である私が顕現しはじめる
この誕生したものが私である主体ではないだろうか
この自我という記憶が頭脳を経由してやってきているマインドに対して、その条件付けられている記憶
に従って反応していると
記憶である自我はプログラムに従って成長し、そしてやがて花開く
そして実を結んで落果する、思考の終焉は自我の終焉であると
そしてその自我の終焉が愛の始まりであると言われている
覚者達が言われる世界が次元がそこに拡がっている
ひとつの中に全体がある
全体はひとつの中にある
私の中に世界があると、宇宙は私の中にあると
全ての人の苦しみも悲しみも、有情も非情も私の中にある、世界と私は分離しておらずひとつであり
いと小さき者の苦しみも悲しみも私の苦しみであり私の悲しみであると
最大は最小と同じであり、最小は最大であると
微粒子の中に宇宙はあり、宇宙は微粒子の中にあると
世界は私であると
分離は錯覚であると、全てはひとつであると