識別の道は極めて困難だ
識別の道とは「観察者は観察されるものである」「「見るものは見られるものである」の道であると思われる
このことに関連してラーマクリシュナは以下のように語っている
『識別の道は極めて困難です。
私は既に貴方に七つの階域の話をしました。
心が第七の階域に到達すると、三昧に入ります。
ブラフマンが真実で、世界は虚偽であるとの実感が定着し、心は分解して、三昧に入ります。
しかしこのカリユガの時代では、人間の生存は食物に依存してします。
どうして「ブラフマンが真実で世界は虚偽である」と実感できるでしょうか?
「私は肉体ではない、私は心ではない、二十四からなる宇宙原理でもない。私は喜怒哀楽を超えている。
また、私の何処に病気や悲惨、老いや死があるというのか」
−−−-それら全てを実感するのは、このカリユガの時代には難しいのです。
どれだけ推理識別しても、肉体が自己であるという感覚が、どこからともなくやってきます。
−−このカリユガの時代には愛による神との合一が適しているだけではなくて容易です』
『第五と第六の階域の間を、ボートレースする方が良いのです』
『「私は彼である」という自惚れは、良くありません。
肉体が自己であるという意識を持ちながら、そのような虚栄を張るなら、
その人に極めて大きな害をもたらします。
向上することも出来ず。次第に堕落します。
他の人を騙し、自分を騙し、自分の状態を理解することが出来ません』
『神への熱望や強烈な愛が“自分の方”からやってきたら、唱名などの宗教的な行為は脱落します』
そして、この私達の現在のパーソナリティーの段階を・階域を、ラーマクリシュナは具体的に説明している
私達・現在のパーソナリティーの階域を、即ちその段階での意識の特長というものを、具体的なチャクラに相似して説明し、
どのように視界が開けて、視野が変貌していくのかを説明している
チャクラに付着している付着物から順次解放されていく有様を具体的に説明しているのは驚くべき事である
私達・現在のパーソナリティーは、現在どの階域に住んでいるのかが具体的に分かるであろうし、
現在のパーソナリティーという思考と感情と行為の主体が、如何に素質的可能性を持っているのかが分かり、思考と感情と
行為が現在のパーソナリティーの階域を進展させ、可能性を開いていく最大のキーであるのかを示していると言える
現在のパーソナリティーという、私達の思考と感情と行為のあり方が最大の注目されていることなのであり、重要な
ことである
私達殆どの現在のパーソナリティーが下位の三つの部位に住んでいるにも関わらず、「私は肉体ではない、私は愛である、
私は行為していない」と言明したりするのは極めて大きな害をもたらすことなのだ
『心が第七の階域に昇ったら三昧に入ります。
三昧に入ることによって初めて、個我は我性を捨て去ることが出来ます。
心が普通住んでいるところは何処でしょうか?
最初の三つの階域に住みます。
性器、肛門、臍−−−これがその三つの階域です。
その時には、心は、ただこの世に--女と金に執着します。
心が心臓に住むと、その時には神の光を見ます。
その人は光を見て「これは何だ!」「これは何だ!」といいます。
その次には喉です。
そこに住むと、その時にはただ神の話を聞き、神を語ることを望みます。
額に、つまり眉間に到達すると、絶対の有・知・喜の姿を見ます。
その姿と抱擁し触れたいと憧れます。
しかし、できません。ランタンの中に灯を見ますが触れることが出来ません。
触れようとすれば触れられる感じです。しかし、触れることが出来ません。
心が第七の階域に達すると、その時には我性は最早残りません、その人は三昧に入ります』
『神の智慧を得たのなら、我性を取り除くことが出来ます。
神の智慧を得たのなら三昧に入ります。三昧に入ってはじめて私-意識は消えます。
しかしそのような神の智慧を得ることは極めて困難です』
『心が第七の階域に到達すると、どうなるのかは言えないのです』
『塩人形が海に行きました。
しかし水に入るやいなや溶けてしまったのです。
海の深さがどれ程か、誰が報告してくれるでしょうか、
報告するはずのその人が、溶けてしまったのです。
第七の段階では、心は消滅して、三昧に入ります。
どのように感じるのか、口では言えません』