自我・エゴとはなにか
(真我である気づきからの意識を覆っている自我とは何か)
ラメッシ・S・バルセカール(ニサルガダッタ・マハラジの弟子)は自我(エゴ)の根源に関して次のように言及しています
意識だけが存在します。
それは、世界の見かけという幻想とエゴの感覚を創造し、
本当は純粋な融合の中に、多様性という幻想を認識します。
超越的だとされている無限の意識の中に、どのようにして世界が存在しうるのかを理解することは、困難な事のようです。
実に、意識以外の何もなく、それゆえ、
意識は、存在するように見えるあらゆるものの中に内在せざるを得ないのです。
それにも関わらず、どんな現象的現実も意識とどんな種類の関係をもつことも出来ません。
なぜなら、関係とは、ふたつの異なった実体の間にのみ存在することが出来るからです。
この意味に於いて意識は現象宇宙に対しては、超越的であるのです。
宇宙が意識の中に存在するのは、未来の波が静かな海に存在するようなものですー潜在可能性の中に於いて、只、見かけだけが異なるのです。
現象が「現実」に見えるという幻想のときも、真実に目覚めた後も、現象宇宙のあらゆるものや対象物は、意識の産物です。
私達はまさに意識に他ならず、
それ以外のなにものであったこともありません。
恐らく、どんなときにどんな「私たち」も存在したことが無く、
存在する全て、そして、かって存在してきた全ては意識であると、もし考えられることが出来れば、真実を「理解」することはより簡単になるでしょう。
「私たち」は意識的にも無意識的にも、自分のことを感覚のある存在と考え、それゆえ、現象と分離しているいるものとして考えています。
つまり、「私たち」は主体で、他の現象は対象である、ということです。
しかし現実はといえば、具象化した現象としての「私たち」は、実際は、ひとつの現象宇宙の一部で在るに過ぎないということです。
なぜ私たちは自分が他から分離していると考えるのかといえば、
感覚を持つ存在として、認識能力を通じて機能している感覚によって、
見かけの宇宙を知るようになるからです。
この「感覚」は本質的に意識それ自身のある面です。
そしてこの理由ゆえに、
「『私』は現象的見かけ以外の存在である」という最も深い感覚を取り除くことが出来ないのです。
ですから、実に私たちは存在しているわけですが、
この幻想(MAYA)は、私達が、感覚としての私たちを集合的に考える代わりに(その感覚のおかげで、感覚を持つ存在を含めて、意識の中に顕れる現象を認識できるのです)、分離した此処のこの実体だと考える事実の中に存在します。
その点に、私達の苦しみと束縛があるのです。
私達が、自分は分離した実体ではなく、
意識そのものである(それには感覚がついていて、現象を認識する道具として働いている)という理解、その事実への目覚めが有れば、
分離の幻想、
私たちの苦しみと束縛の原因が、消えてしまいます。
そのときには、具現化されていないときは、私たちは非現象であり、現象化されると、私達はみかけであるという明確な理解があります。
どんな行為であれ、その行為を分析することが、私が思うに、あなたがする必要のある唯一の修行(SADHANA)と練習です。
それが私の観念です。あなたにとってすることが可能な程度まで、この修行をやってください
そして、このことも神の意志とその肉体精神機構の運命に依存しています。
ですから、あなたがその修行をやることが出来る程度だけ、
どんな行為も本当は「自分の」行為ではないと言う結論に至ります。
そして、もしこのことが来る日も来る日も起これば、ある地点でー再び、、もしそれが神の意志とその肉体精神機構の運命であれば
「もしあなたが何もしていないとすれば、あなたとは誰か?」
という質問が、自分の存在の深みからわき起こってきます。
仏陀は言いました「それについて行為者は存在しない」。
これがあなたが個人的経験から到達する結論です。
もしあなたが何もしていないならば、
あなたとは誰か?、
私とは誰か?
「私とは誰か?」
これはラマナ・マハリシの質問です。
これを問うのは、知力ではないことを理解することが非常に大切です。
もし知力が尋ねたら、そのときは知力が答えを提供します。
そして知力が提供した答えに対して、また知力が質問をします。
あなたは堂々巡りを続けます。
でも、源泉から質問が起こるとき、
その源泉と肉体精神機構の意志であれば、
そのとき、知力からではなく、源泉から答えが来ます
ーある肉体精神機構に与えられた名前以外に決してあなた(個人)はいたことが無かったのです。
ですからどんな行為者もいたことがありません。
あなたとそのエゴは存在していません。
もしあなたが存在していないとすれば、
何が存在しているのか?
ただ源泉だけです。
源泉だけが、存在する全てです。
私の基本的観念は、あらゆる人間は、源泉が使うプログラムされた道具やコンピュータであるというものです。
そして一人一人の人間はユニークです。
どんな二人の人間も同じではありません。
それは遺伝子と、一人一人が受け取る条件付けが違うからです。
そして人間はその条件付けに対して、何のコントロールも出来ません。
遺伝子と条件付けが、私がプログラミングとよんでいるものです。
そして、源泉は自分がしたいと思う行為を
もたらすために何をするでしょうか?
それはインプット(入力)します。
インプットとは何でしょうか?
源泉はあなたに思考を送り、
脳はその思考に反応し、そのプログラミングに従って、
アウトプット(出力)します。
あなたはこの出力は「自分の」行為だと言います。
でも、あなたが一つ一つの行為を分析するとき、
どんな行為も「自分の」行為ではないという結論に至ります
(途中省略)
その、自由とは巻き込まれることからの自由です、
そして「誰」が巻き込まれるのでしょうか?、
エゴは巻き込まれます。
その自由とはエゴからの自由です。
そしてエゴとは、個人的行為者という感覚
ーこの肉体精神機構と他の肉体精神機構の両方の個人的行為者という
感覚から自由であるということです。
誰も自由意志を持っていません。
起こることは全て、何十億という肉体精神機構を通じて起こる行為です。
ですからあなたが罪悪感を感じたり、
誇りを感じたり、
誰かを憎む必要は無いのです。
ですから、完全な最後の理解の後では、
何も起こっていないということになります。
そして、もし何も起こっていないのであれば、
何が問題となりうるでしょうか、
「誰」にとって?
ですからここでラマナ・マハリシが
究極の真実として言った言葉の最初の行に戻ります。
「創造もなく、破壊もない」。
もし創造が無いとすれば、消滅もありません。
もし創造が無いとすれば「誰」にとって、
何が問題になりうるのでしょうか?
わかりますか?
ですから「その何が問題ですか」というのはエゴではありません、
勿論エゴには問題です。
でも、エゴが破壊されたら、
そして最終的理解が起こるとき、
そのときには本当の感情がやってきます
ー現れて来たるどんなことも問題だろうか?
なぜなら現れることは、唯の見かけに過ぎないからです!
見かけの何が問題だろうか?
それは何だろうか?
その「それ」は見かけです。
本当は何も起こっていません。
何も創造されていません。
究極の理解は、それは本当には問題ではない、と言うことです。
(途中省略)
神の意志でなければ何事も起こることは出来ない
ーそれは誰それの行為ではないー
と言うことを理解すれば
そのときにはあなたはまた、
誰か他の肉体精神機構を通じて起きた何かも
「その人の」行為ではないことが分かります。
従って、
他の肉体精神機構が、「自分の」行為だと考えているどんな行為があなたに影響を与えても、あなたはそれが「その人の」行為ではないことを知っています。
だとしたら、
どうしてあなたは誰かを自分の敵だと思うことが出来るでしょうか?
どうして誰かを憎むことが出来るでしょうか?
どうして誰かを羨ましく思うことが出来るでしょうか?
いったんあなたがどんな個人も何もしていないこと
ー行為は、神がプログラムされているように、
一人一人の肉体精神機構を通じて起きているー
を受け入れれば、そのときには四つの美しいことが起こります。
罪悪感もなく、
プライドもなく、
憎しみもなく、
妬みもない、
人生はシンプルになります。
それぞれの肉体精神機構の中の神の意志は、
私がその肉体精神機構の運命とよんでいるものであり、
妊娠の瞬間に刻印されたものです。
あなたはサムサーラにいながらニルバーナ、あるいはニルバーナが象徴する平和を見つけなければいけないということです。
あなたはサムサーラを逃れることは出来ません。
あなたは惨めであるこの世を逃れることは出来ません。
あなたが発見することはただ、
それが神の意志とその肉体精神機構の運命であるとすれば、
この世にいながら、ニルバーナを象徴する平和だけです。
ですから最後の要点は、
あなたは人生を逃れることは出来ないと言うことです。
起こるがままに人生を受け入れなければなりません。
そして起こるがままに人生を受け入れるとはニルバーナの平和を意味しています。
慈悲が湧きこるのは、
それが他の肉体精神機構であれ自分自身の肉体精神機構であれ、
何の違いもありません。
どの肉体精神機構のなかであれ、慈悲がわき起こるのを単に目撃するだけです
それは同じ劇です。
それは同じエネルギーです。
それは同じ源泉です。
それは同じ神がどんな肉体精神機構であれ、
それを通じて生み出されるものを生み出しているのです。
考えること、
行うこと、
経験すること
ーどの肉体精神機構を通じて起こるどんなことにも、
個人の行為者は存在しません。
それは同じ神、エネルギー、神です。それが賢者の理解です。
そしてそれ故、賢者は分離を見ません。
どんな意味で賢者は分離を見ないのでしょうか?
それは誰も何もしていないという、
この意味においてです。
それは、あらゆる肉体精神機構を通じて機能している
同じエネルギーです。
最終的な言葉は、
あるがままの現実が変わることを望むことなく、
起こることを何でも受け入れることです。
究極の平和は、
この肉体精神機構を通じて起こる行為にもかかわらず、起こるのです。
そのとき、誇りも、罪悪感もありません。
他の肉体精神機構を通じて起こる行為があなたに影響を与え、
傷や喜びがそこにあるかもしれませんが、
誰も何もやっていないという理解もあります。
ですからあなたであろうと、他の誰であろうと、
行為者は誰もいない、
という理解は、
誇りも、
罪悪感も、
憎しみも、
妬みも、
嫉妬もない事を意味し、
それが平和と言うこと、
目覚めているときに行き渡るニルバーナの平和と言うことです。
エゴがあるそれを受け入れてください。
それがいたいだけ、あるいは神の意志である限り、
それをいさせましょう、
ですから最終的な受入は、エゴを受け入れることです。
以上、全てラメッシ・S・バルセカールより抜粋