ラマナ・マハリシの語る至高の言葉から
ラマナ・マハリシは言う(「あるがまま」より)
もし、あなたが自分自身を身体だと考えるなら世界は外側に現れる。
(久保:世界が自分の認識対象として外側に客体として現れている、ということは自分の魂が「自分は身体だ」と考えている証拠だと言うことか)
だが、世界も、その苦しみもあなたの中にある。
もしあなたが内側を見れば苦しみはなくなるだろう。
そしてあなたが真我であるなら(久保:内側に世界を見て、自分が世界だと悟れば)
世界はブラフマンとして現れる。
もし真我実現されれば、人は(久保:自分の苦しみだけではなく)
すべての苦しみが存在していないことが分かる。
(久保:既に完全完璧であり、苦しみはないと上江洲義秀先生がいつもいっていることなのだろうか)
苦しみがあると思っていることは(久保:外側に世界が認識対象として存在していると思っていることとは)
純粋意識から立ち現れた自我である個人(久保:魂ということか)に想念が起こるためである。
苦しみとは個人という偽の感覚から生まれた幻でしかない。
身体が私であるという観念、その妄想だけが苦しみの原因なのである。
自我が破壊されたその時、真我に注意を向ける人のハートのなかでは
至高なる沈黙の言葉(マウナ・パラー・ヴァーク)が響きわたる。
それが神の名前「私−私」である。
「私」(久保:真我)という感覚に注意を払い、「私-私」に絶えず瞑想するなら
人は想念の起こる源(久保:真我)に飛び込み自我を破壊し去るだろう。