錯覚しているのは人格ではなくて自己だ
ニサルガダッタ・マハラジは云う
『宇宙は行為であふれている。
だが、そこに行為する者はいないのだ。
そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。』
『人格(ヴィヤクティ)は想像の産物にすぎない。
自己(ヴィヤクタ)はこの想像の犠牲となっている。
あなたではないものを、あなた自身と見なすことが束縛するのだ。
個人はそれ自体で独自に存在できない。
個人というものが在ると信じ、個人としての存在を意識しているのは
自己なのだ。
すべての原因なき原因である非顕現(アヴィヤクタ)は、
自己(ヴィヤクタ)の彼方に在る。
個人を真我と再結合するということさえ正しいとは言えない。
なぜなら、個人というものは存在しないからだ。
ただ精神的画像が偽りの実在を与えただけだ。
何も分割されたものはなく、統合すべきものもない。』
肉体は全くの聖霊のものであり、それは此処で誕生して、そして生きて、衰え、病気になり、死亡する
このプロセスは完全に自動的なシステムであり、それは起こっている事だと
これには個人の人格は全く関与できないのだと
ではこの個人の人格とはなにか
この個人の人格とは
プログラムによって条件付けられている肉体の頭脳の結果であるところの思考であり
その記憶ではないだろうか、
これが今生の人格とよばれているのではなかろうか
頭脳を経由してやってきている(プログラムで条件付けられている感情や思考が脳に起きている)
思考や感情や出来事の記憶に過ぎないものを、それを
自分の思考、
自分の感情、
自分の人生
自分の身体
自分のカルマ・運命
自分が起こしている出来事だと云っているのがその記憶なのではないか・・・・
これを書いているこの現在の私のことを・・これを称して個人・人格と云っているのであるが
この人格は今生のみならず過去世の個人人格も数珠の様に繋がっているのだろう・・きっと・・
このワサナと云われている人格達は私自身として、それぞれがそれぞれの閉鎖思考空間で
生存しているのではないか、それぞれが閉鎖の記憶空間の中で人生を生きているのではないか
そしてこの今生の個人私に繋がっている「私と言う人格達」は実は「いなかった」
ということが今生の個人私によって領解されるまで、その反応は見られ続けねばならない
その起こっている思考と、その思考に反応している「思考の記憶」の両方を見続けることが最重要だと
思われる・・これがワークだ
これらのことの観察者も含めて、個人や人格とは頭脳を通じて起こっている映像の一部分であるに過ぎな
いのではないか
この個人・人格とは頭脳にやってきて起こっている思考の記憶であり、プログラムという条件付けにした
がって発生している「結果である意識状態」である、
そしてこの意識状態が現在のパーソナリティーとよばれている
現象界では映像の中で、この現在のパーソナリティーが進化し、成長しているのであり、通常はそれは
私・自我と呼ばれている、そしてこれこそプログラムの結果であり、
賢者によって言われている私ではないものである
それが自分自身を主体と客体に分離して、自分と世界を内側と外側に分割し、知覚し、認識し、思考し、
感覚している
低次思考や感情の記憶とは肉体の頭脳を経由した自我体の記憶であり、そしてそれは死後も続い
ていく自我体・精妙体(サイコノエティック体)の記憶ではないか、
再転生する際にはそれらはワサナとなって花びらのようにひとまとまりのプールに落ちていくと言われている
それにひきかえこれらの感情や思考を排除した純粋な記憶であるものは成果として輪廻している
コーザル実体に組み込まれると教えられている
そしてこれらは原因体(コーザル体)の記憶となり、次の人生の運命を決める要因となっていくんだと
この原因体のことを指してニサルガダッタ・マハラジは人格と言っていると思われる、
この人格とは彼がここで言っている自己と呼んでいるものではない、まして真の私ではない
私達・人格とはプログラムの結果に過ぎない、頭脳の結果である
私達・人格の思うことはプログラムである頭脳と精妙体の結果に過ぎない
私達・人格の感じる事はプログラムである頭脳と精妙体の結果に過ぎない
私達・人格の欲望や喜びや恐怖などの感情はプログラムである頭脳と精妙体の結果に過ぎない
私達・人格の人生・人との出会い・恋愛・そして結婚・別離などのどれをとってもこれらの出来事である
運命とカルマとは頭脳と精妙体と原因体を生み出し、そして支えているプログラムの結果である
煎じ詰めれば
私達自身がプログラムの結果であり、プログラムの投影そのものではないか
頭脳の条件付けの結果なのだ
これが私達の人格と個人であり、この個人と人格という「成長するプログラムの映像」を見た
観照者である自己が、その映像を自分自身だと錯覚したのだ、とニサルガダッタ・マハラジは言っているように
思える
進化し良くなるのは映像の人格であり、錯覚している自己ではないと
だから錯覚したのは人格ではなくて自己と云われている「未知なる私の現象界に接触した部分」だと
未知なる私の現象界部分(現象界と接触している部分であり、これを永遠のパーソナリティーと
呼ばれている)
これが観照者の現象界部分の私のことであり、この自己を指して、「自己が人格を自分と錯覚している」
のだと云っているのだ
そしてニサルガダッタ・マハラジは更に
「すべての原因なき原因である非顕現(アヴィヤクタ)は、自己(ヴィヤクタ)
の彼方に在る。」
というのだ
幽体離脱の状態とは肉体から脱出したのは自我である精妙体と原因体であり、そこは潜在意識という幽界や
霊界という結果の世界に、夢の幻影世界に脱出したのだろう
そして
幽体離脱ではなく幽体からの離脱が
精妙体と原因体というプログラムである映像の人格から脱出した状態であるがそれが自己と言われている
その自己とは観照者の現象界部分での接触部分であることだろう、この自己は生まれてくる親や出来事をこの自己は選ぶ
ことも出来るだろうが、しかし、ここもまだ現象界の高次の部分である
これも高次マインドの世界であることは確かである
バーナデットロバーツなどのいう自己からの離脱とは
肉体からの離脱(幽体離脱)でもなく、
幽体からの離脱でもなくて
この観照者である自己からの離脱・脱出であることに他ならない
ニサルガダッタ・マハラジが指摘されている場所はそこであり
観照者の現象界部分即ち「輪廻転生している原因体を自分だ」と錯覚している自己からの
離脱・脱出こそが真の私の場所であることだろうが
このことは、全く類推したり、知識や概念や思考では接近できないので
これに関して思考する事は許されることではないだろう
此処から先は体験や経験や知覚や認識が微塵もあってはならない領域であり
思考や、感情や、観念や時間などの二元・分離では接近できない
主体と客体の分離があり、主体と客体が分離独立している次元ではないからだ
無思考・非対象であることがここの条件だからだ
過去現在未来や思考や概念や観念や対象が、
そして分離認識している主体が、
対象を主体とは分離しているとの感覚が少しでもあれば、それはそこの領域ではない
そこには知覚や記憶や継続は全くないのだ、愛だからだ
これをバーナデットロバーツたちは云っているのだと思われる