今此処・あるがまま

既知なるものと同一化しない
(あるがままをあるがままに正見する)
    
                                                 覚者の方々の教えの〜意識面からの一考察


一命一体・全体

 


今・此処・あるがまま

 


気づき・存在


沈黙・
静寂


高等思考
(大文字のマインド)受動的な静寂のなかで、思考によらない非二元的な凝視


通常思考

(マインド・条件付けられた頭脳を経由した思考・既知なるもの)


非言語・非言葉・非知識
非象徴・非表象・非顕現


思考の停止

(思考を停止するのではなく、停止がやってくる状態)


言葉・言語・想念・知識の限界と役割に気づいている


言葉・言語・知識・想念(観念)・感覚・知覚は分離であり、葛藤であり、常に過去と未来を志向している


ここの領域は言葉や言語では叙述できないので叙述する事は出来ない、マインドの沈黙ではない、真の沈黙の中で伝えられるのみである

 

気づきはマインドを超えた彼方であるので、マインドという分離性、二元性である言葉や思考では伝達できない、この領域はマインドなどの体験ではない、経験ではない、知覚や感覚ではない
象徴や表象ではない


〜願わない・求めない


マインドの特徴はあるがままをあるがままに正見することをせず、常に仮想の自分が仮想の自分に「それ」がやってくることを期待し、願い求めている


〜何処にも行かない


自我(エゴ)拡大の欲望を美化して〜になろうとする

マインドである自己が神と一体になろうとする、真我実現しようとする、愛を行おうとする、自分はワンネスだと思考し思う
悟ろうとしている者こそマインドである、そして思考は常に「それ」へ到る方法を尋ねる


〜に成ろうとしない


ひとかどの者に成ろうとする、悟ろうとする、より良くなろうとする

自己は将来悟るであろうと錯覚する、過去と未来に焦点を合わせて理想や目的を抱く、それらは、マインドによるマインドの錯覚なのに

自己の本質である恐怖と葛藤から、逃げたり避けようとする、観察者である自己はそれらとは異なっていると思っている
常になろう、進歩し、向上しようとするものこそマインドである、思考である


この気づきを知ることは出来ない、知ることが出来るもの、伝えることが出来るものは気づきではなく、真の私ではない

※この気づきの状態は「見る者は見られるものである」という眼であり、非二元の状態・「存在」でもあり、「I AM THAT I AM」である

※あるがままを「見る者は見られるものである」の眼で見ていることが即ち全体性の
気づきの意識でもある、解放である

※これはまた現象世界と実相世界の分離を止揚し、あるがままという実在界の「実在するもの」の状態である、これこそ神の眼そのものである、真我の眼そのものである。
※このあるがままをあるがままに分離せずに「見る者は見られるもの」として見ていることが即ちマインド・自己からの解放である

※この「見る者は見られるもの」若しくは「観察者は観察されるもの」の状態こそ、偽我と真我の分離を止揚し、このままで「実在するもの」が開示される、真の私の状態である

※見る者と見られる者の二元対立、分離、分割こそ、この現象界を成立させているマインドの本質であり、見る者が即見られるものであるとき、このときそこにはマインドは存在せず、「真に存在するもの」がそこに「在る」、あるがままとして
※この眼が「見る」であり「実在するもの」であり「真の愛」そのものである


〜良くなろうとしない


アセンションという時間の虜になっている

努力している感覚、意志という感覚、私が行為しているという行為者の感覚、自分が生きていると言う錯覚、自分の人生という錯覚


何も思わず、何も考えず


常に思考やマインドと自己同一化している状態
、マインドや思考は私ではない

対象があると錯覚し(外部に)そしてそれらを判断し、非難し、分類し、批判し、命名する

恐怖、不安、暴力、傲慢、憎悪、葛藤、悲しみ、苦しみそのものが「見ている自己」ではないと錯覚する、分離していると錯覚する、見ている自己は見られている恐怖そのものであるのに


自他の分離を受け入れず


輪廻している自分が存在していると錯覚している

外部の、そして内部の対象が観察者以外に存在していると錯覚していること、(観察者は観察されるものであるのに)自他が分離していると錯覚すること

感覚や知覚と自己同一化してしまうこと(私は感覚や知覚ではない)

体験や経験や記憶と自己同一化してしまうこと(私は体験や経験や記憶ではない)

記憶しているマインドである魂と自己同一化してしまうこと(私はマインドである記憶する魂ではない)


何も足さず、何も引かず


足ることを知らず、常にもっともっと良くなろうという欲望と同一化する状態、何かを常に願っているので、今此処に充足し、安らぐことが出来ない状態

 


外部は内部であり、内部は外部であると実感している


私は身体であるとの錯覚と同一化しない


無知(根本無明)と同一化して、自分が個人で身体であると錯覚してしまう
(私は身体ではない)

この自分は身体であるとの錯覚を受け入れている状態


自己は存在していないと実感している

※探していた真我は、神は、あるがままをあるがままに「正見」している中に既に在った、「見る者は見られるものである」この目が非二元性そのものであった、自他の分離をすることなく、あるがままをあるがままに見ることが神であり真の私であった。これこそ神の眼であり、愛そのものである
※「見る者はみられるもの」が神である。これこそが実在そのものであり。実在界である。


私は心・思考であるとの錯覚と同一化しない


自分ではないものだけを知ることができる、体験できる、知ること・体験・経験とはマインドの機能である、時間の領域である

自分ではないものだけを知覚できる、知覚とはマインドの機能である

心・思考とは知覚・記憶・体験・経験・言葉であり、これらは私ではない

思考・心は私ではない。思考も心も願望も、行為も結果も外部から、やってくる。起きる。それらのやってくる思考や願望や行為やその結果は、自分が原因であると錯覚するが、それらは自分とは関係なく起こる、やってくるのに


私は全体であると実感している


自他の分離感という錯覚と同一化しない


内部は外部であり、真の私とは関係なく、根源によって上映されている映像・虚像であるのに、外部が実在していると錯覚している
、マインドが錯覚している

外部は内部であり、世界は私であり、私の中に世界があるのに分離していると錯覚している

内部と外部が別にあると錯覚している

貴方と私が別々だと錯覚している 


貴方は私であると実感してる


「私という個人」や人格そして「輪廻している魂・主体」だと言う錯覚と同一化しない


身体を使って生きている自己は、私ではない
身体や行為、出来事は根源が起こしているのに、自分が起こしている、自分が生きていると錯覚しているのが自我(エゴ)である。自我(エゴ)自己はこの身体、行為、出来事、運命、カルマ、人生には何ら関与していない、これらは起きている、流れている。

この輪廻している私とは第
1想念という記憶の塊だ

根源によって作られた記憶の魂が輪廻しているのに、自分という魂の主体が有ると思ってしまう。真の私は生まれてもおらず、生きてもおらず、死ぬこともないのに

「私は存在するもの」ではない、「完全完璧」ではないと思っている、「私は全体」ではない、「私は他人、他人は私」、ではないと思っている、「私は時空を超え、全てに遍在している」のではないとおもっている。