今此処・あるがまま 既知なるものと同一化しない (あるがままをあるがままに正見する) 覚者の方々の教えの〜意識面からの一考察 |
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(思考を停止するのではなく、停止がやってくる状態) |
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気づきはマインドを超えた彼方であるので、マインドという分離性、二元性である言葉や思考では伝達できない、この領域はマインドなどの体験ではない、経験ではない、知覚や感覚ではない |
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マインドである自己が神と一体になろうとする、真我実現しようとする、愛を行おうとする |
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自己は将来悟るであろうと錯覚する、過去と未来に焦点を合わせて理想や目的を抱く、それらは、マインドによるマインドの錯覚なのに 自己の本質である恐怖と葛藤から、逃げたり避けようとする、観察者である自己はそれらとは異なっていると思っている |
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努力している感覚、意志という感覚、私が行為しているという行為者の感覚、自分が生きていると言う錯覚、自分の人生という錯覚 |
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対象があると錯覚し(外部に)そしてそれらを判断し、非難し、分類し、批判し、命名する 恐怖、不安、暴力、傲慢、憎悪、葛藤、悲しみ、苦しみそのものが「見ている自己」ではないと錯覚する、分離していると錯覚する、見ている自己は見られている恐怖そのものであるのに |
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外部の、そして内部の対象が観察者以外に存在していると錯覚していること、(観察者は観察されるものであるのに)自他が分離していると錯覚すること 感覚や知覚と自己同一化してしまうこと(私は感覚や知覚ではない) 体験や経験や記憶と自己同一化してしまうこと(私は体験や経験や記憶ではない) 記憶しているマインドである魂と自己同一化してしまうこと(私はマインドである記憶する魂ではない) |
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この自分は身体であるとの錯覚を受け入れている状態 |
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※探していた真我は、神は、あるがままをあるがままに「正見」している中に既に在った、「見る者は見られるものである」この目が非二元性そのものであった、自他の分離をすることなく、あるがままをあるがままに見ることが神であり真の私であった。これこそ神の眼であり、愛そのものである |
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自分ではないものだけを知覚できる、知覚とはマインドの機能である 心・思考とは知覚・記憶・体験・経験・言葉であり、これらは私ではない 思考・心は私ではない。思考も心も願望も、行為も結果も外部から、やってくる。起きる。それらのやってくる思考や願望や行為やその結果は、自分が原因であると錯覚するが、それらは自分とは関係なく起こる、やってくるのに |
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外部は内部であり、世界は私であり、私の中に世界があるのに分離していると錯覚している 内部と外部が別にあると錯覚している |
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根源によって作られた記憶の魂が輪廻しているのに、自分という魂の主体が有ると思ってしまう 「私は存在するもの」ではない、「完全完璧」ではないと思っている、「私は全体」ではない、「私は他人、他人は私」、ではないと思っている、「私は時空を超え、全てに遍在している」のではないとおもっている。 |
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