どの私のことを私と言っているのか


「一体全体あなたはいつも、私、私と言っているが、どの私の事を言っているのか」

多くの賢者はそう言われる

私達は通常「私は」「私が」といっても、どのレベルの私を私と言っているのかを知らない

自分という意識は単一で、自分とはこの人格であり、個人であって肉体を持って輪廻していると思っている

自分は成長している・・・・と、けれども、そう思っている私とはどこの私のことなのだろうか

先日、或る人が私のブログに「自分の置かれている現状のありのままの姿を認識すべきだ」といわれたが

それは、その人は或る次元の或る自分を指して「自分の現状」と言っているのであるが、たしかにその次元の

自分のあるがままの現状を非難無く正しく認識することも大切だが、その次元の私の正体とは何であるのかを

調べること、そして「この私」とは何であるのかを概念ではなくて実感として見ることも大切であると思う

けれどもそれ以上に大切なのが、この現在のパーソナリティーとしての自分が「未知なる観照者としての

自分」に焦点を合わすことではないか

未知であるけど、「この私」のことを見守って下さっている本当の私に注意を向けることが非常に大切だと思う

それはマインドの自分にとっては確かに観念の範囲内ではあるが、その観念にはより真実の次元の自分か

ら見た場合は「より真実に近い観念」であり「真実から遠ざかっていく観念から離れる観念」であり

「マインドや自我の構造を暴露していく観念」「観念であることを暴露する観念」でもあり、この観念は

「観念から離れるため」には有効だと思われる

その観念は自我からの観念ではなく、未知なる私からの観念だと思われるのだ




@この現在の自分・名前を持った人格・個人

 行為していると思ってる(身体を自分とおもいこみ、それ故に自分が行為していると思っている)自分とは
 実は単なる条件反射であり、根源のプログラムの結果に過ぎないことを完全に理解したときAである
 魂の自分が顕現するのではないか
 (しかしこの魂の自分といえども二元性のマインドの世界の中にあり進化、成長、発展という時間の
  次元の中に生まれた自分であるのではないか)
 ニサルガダッタ・マハラジはこの本当の私ではない、結果としての私の事(現在のパーソナリティー
  のこと)を

 「マインドの中で

 見守る者の
(観照者のことである:久保)

 反映が(魂のこと:久保)

 (根源からの思考とその記憶作用に脳内で出会って:久保)「私」という感覚を創りだして
 個人は一見独立したように見える存在(個人・人格:久保)を獲得するのだ

 けれども実際には個人という者は存在しない、ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同
 一化するだけだ
」といっている



A事実の自分

 このマインドの中での「見守るもの」の反映である魂としての私の事をニサルガダッタ・マハラジは以下の
 ように言っている

 「この見守る者(観照者・真の私のこと:久保)

  彼の夢を橋渡しする「私は在る」という小さな点(これが魂である:久保)

  以外あなたのものはないのだ、

  「私はこれだ」、「私はあれだ」
(これを言うのは人格であり、肉体と同一化している個人である)
  は夢なのだ、

  一方純粋な「私は在る」
(観照者である彼の現象界での夢を橋渡ししている魂のこと:久保)
  には実在の特質がある」と
 (魂としての自分であり、身体と形状を持っていない意識自体の自分・ この意識の自分の状態を正確に
 反映しているのがクンダリーニとチャクラではないだろうか)
 自我との繋がりがほどけ始めるにつれて万物との一体感を感じ始め、
 自分の大元が真実の私であり、その未知なる自分こそが真の私であることを
 即ち無思考、非対象の私でり、認識も知覚も記憶も経験も知識も対象もない全体こそが私であるとの
 実感と繋がるのはこの魂の自分を通してであると思われる

 この魂の自分に対して
 ニサルガダッタ・マハラジはこのように言っている

 「あなたであるもの(観照者・見守る者のこと:久保)
 行為の中で表現することなのだ

 (この行為とは現在のパーソナリティーが行為していると思い込んでいる錯覚ではなくて(映像としての
 行為)ではなく、観念を伴わない行為、自由である観照者の行為のことを指している)

 このために貴方は身体とマインドを持っているのだ
 (通常は身体とマインドに同一化し、それを自分と信じているので、その身体とマインドから解放されて
  今度は身体とマインドの主人となってそれらを使いなさいと言う意味:久保)
  それらを手にし、あなたに仕えさせなさい


B真実の自分(見守る者、観照者)
 この眞の私に出会う(結合・帰還する)のが魂の自分であり、この三つの自分が繋がることがワークなので
 はないだろうか
 この真実の自分とはクリシュナムルティーやラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジが記述している
 ような私であり
 最初から@の私とは存在していなかったことを領解したときに出現した私であり
 その私AがBの私と繋がって@の私を使い始めるのだと思われる
 そのとき全ての私が私であり、私以外に何もないという、万物は一つである実感が生じているといわれる 










































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