「いのち」がこの肉体に宿ったので呼吸が始まった
呼吸があるのでいのちがあるのではない
「いのち」がこの肉体に宿ったので心臓が動き始めた
心臓が動いているので、いのちがあるのではない
「いのち」がこの肉体の頭脳と繋がったので,分離した実体の「自分」が始まった
頭脳があるのでいのちが生まれたのではない
頭脳は「自分」を生み出した、自我が生みだされた。
頭脳の条件づけに従って。
その「自分」とは「いのち」ではない、
それには生命がない、それは生きていない。
それは記憶と頭脳の条件付け、マインドが創りだした意識体だ。
この私はいのちではなく、そのいのちが宿った肉体の頭脳が生み出した、想念体なのだ
それは
想念そのものの凝集にすぎない。
それが人格であり
それが「私」である
それがワサナの本質である。
それは、いのちたる真の私ではない。
真の私は、この作り出された想念体の意識では把握できないのだ。
何故なら、頭脳によりこの作り出された意識は、本質そのものが分離であり、二元性であり
自と他を分けて、認識することしかできないからだ。
これに反して
「真の私」であるいのちは、非分離であり、非二元性なので、この現在の頭脳が作り出した私の認識では、認識も出来ず
体験もできないのだ
この作り出された「私」に認識も体験も全て、分離と二元性の枠の中にあり、これに縛られている
この人格である私は
即ち
この肉体に宿った「い・の・ち」によって、二次的に作り出されたのだ。
この状態を逆に言えば
この肉体に宿ってきた、いのちは(その結果、頭脳によって生み出されたところの)自分ではない
この意識されている自分は
いのちが、肉体に宿り、頭脳と繋がった結果、発生してきたのだ
条件付けられて....。
頭脳の条件付けに応じて・・・・。
自分という、自我は
いのちが
肉体の頭脳と繋がった結果、生み出された意識的な人格で、想念の凝集体である。
深く条件付けられている頭脳が生み出したのが人格であり
この意識が肉体の死後も存続し
幽界、霊界での生活がある
しかし、或る一定期間が過ぎ
霊界にて「いのち」が、この物質界に再び再誕するために、霊界を離れる時
即ち
その自我たる想念の人格と、「いのち」が分離するとき
いのちと分離された「私」達・人格は
休眠状態に入る。
そしてワサナとなる。
「いのち」が今度は新しく物質界に下生し、新しい肉体を纏い、宿ったとき
今度の新しい肉体に、
過去の人格達はワサナとなって
その新しい肉体に繋がる
その新しい人格に、過去の自分として、引き寄せられる。
これが過去世の自分という実体である。
しかしこの過去の自分は、過去の人生に於いて
「いのち」が作り出した、「想念の凝集した形態」即ち想念形態というにすぎないものだ。
いのち無き意識存在、即ちワサナである
現在の自分も来世のワサナであり
現在のワサナは過去世の自分であり
ともに「いのち」から分離している。
想念が作り出した「私」である
この人格の自分は
「いのち」ではなく、「いのち」が作り出した想念の凝縮したもの、「人格」である。
「いのち」が真実の真の私である
だからこそ
この「いのち」は人格ではない
これが真実だ。
このワサナは物質界で肉体によって生み出されたものだ。
多くの、生み出された「私」、自我は物質界に於いて「いのち」が生み出したものだ。
霊界で、ではない。
ワサナ即ち人格はこの物質界において肉体によって生み出された。
これはどういう事だろうか
肉体は変換炉でもあるのだ
肉体はワサナを作り出すことも、より高次のサイコノエティック体というものをも作り出すことも出来る
これは高次に進化した「たましい」の真の乗り物である。
輪廻間を継承し、色んな意味でその成果を受け継いでいる、「いのち」とは別の「たましい」が
その作り手である
その「たましい」の意識的努力で
黄金のボディー(光のボディーとも真のアストラル体・星の身体ともいう)を作り出すのだ。
だから
肉体は変換炉でもある
これは
錬金術でもある。
しかし
霊界ではこれができない
肉体がないからである。
肉体という基盤になる「或る物質」が霊界には無いのだと思う
その「或る物質」が無いと、肉体内でその変換が行われないのだと思う。
進化のためには
この肉体でのワークが、錬金術的な作業が必要なのだ
その作業こそ
「あるがままをあるがままに見る」
「自己観察」
「自己想起」といわれる厳しいワークなのだ
このワークこそ
肉体における、この物質界での錬金術的作業に他ならないのだ
しかし
想念が作り出したワサナでは、それを生み出すことが出来ない。
いのちが無いからである。
即ち生命ある肉体が存在していないからである。
「いのち」は
肉体の死後、その想念たる人格・ワサナ達と分離し
「いのち」の本源階層に戻る。
一方
ワサナたる人格は幽界・霊界にて
「いのち」と分離して、想念だけで生きる、想念が作り出した想念世界の中で。
全く、この物質界にいたときと同じような環境を作り出して、生活している。
それが幽界・霊界である。
その「私」は同波長のもの達が集まり集って
想念で、想念物質の世界を作っていく
即ち
この地球独特の幽界・霊界である。
覚醒した
意識にとっては
本来存在しない、死後の幽界・霊界である。
それは
肉体が作り出した人格・ワサナが作り出した死後の世界の本質である。
それは
幻想の想念世界であり、そこに住むものは「いのち」ではない、想念体であるワサナ達である。
肉体の存命中にもし、
たゆまない自己観察と自己想起によって
黄金の光のボディーが作られていたら
それが
人生の成果である。
この光の身体は「いのち」と同波長であり、真の人格であるたましいに収納されているので
再誕生したところの、その新しい肉体に自動的に結びつき、そのワークの成果はそのたましいの人生の中で
再継続される、
これは継続されて、形成される不滅の身体でもある。
これはいのちとともにある身体である
この黄金の光の身体は生死を超えて存続し、肉体の死後、この光の身体はリアリティーの世界に戻る、
それが天界とか呼ばれている存在レベルの次元である
この次元は地球だけではなく、あらゆる惑星・恒星・宇宙とも繋がって構成されている。
そして
この門が自分である。
しかし
内側しかその門は開かれていない。
そのキーワードは
非分離性・非二元性即ち「見るものは見られるものである」の実際の了解の中に、内側から開かれている。
外に求めることは出来ない
自分の、ここの内側からしか
始められないのだ。
だからこそ
「汝自身を知れ」であり
「私は誰か」であり
「目覚よ」なのである
そして、それは自分は眠っていることに、完全に気づいたとき
「私自身を知る」
「私に出会うとき」
「目覚の時」でもある
それは私というものは存在していなかったことを知るときでもある
「私」は存在していないことを知ることは至福である
歓喜である
愛である