意識がやってくる
意識がやってくる

私のこの現在の意識は意識ではない。
思考である。

分離性と二元性は思考がもたらしたものだと思う

輪廻転生するものは、この思考がもたらした、「私」であり
その私は思考が生み出したものだから
神我ではない

その「私」の中身は
記憶であり
分離性であり、二元性であり
自と他を分けているものであり、そして苦しみであり
悲しみであり
不安であり
恐怖であり
無関心であり
暴力であり
高慢であり
自我という感覚である

それが
「私」というこの主体を生み出したのだ
現在は
私が生きているのではない、思考が生きているのだ
この肉体と頭脳を使って、思考が意識しているのだ

神我、真の私ではない

それは
この自我の意識状態を逆にも言える
私とは、単なる思考である
私とは、思考が生み出したものである
私とは、概念である
私とは、思考であり
その思考が現在の意識そのものである。
それは
真実なる「意識」ではない
単なる思考がこの頭脳で働き、自我という感覚を生み出しているのだ
思考が私で、いま私は思考に過ぎない
従って
私は私ではない。

だから
意識がやってこなくてはいけない
この頭脳に。

意識がやってくる必要がある。
この頭脳は思考に被われている、使われている。

だから
あらゆる体験は
あらゆる考えも
あらゆるこの自我の私の心の中の中身である
暴力からも
不安からも
恐怖からも
愛でないことからも
自他の分離からも
逃れられない。

何故なら
思考に占領されているからだ
この現在の意識が、思考の意識なのだ。

だから
思考でない
マインドでない
意識がやってくる必要がある。
あちらから
この意識の座に
真性の意識が
やってくる必要がある
それは
私ではない
個我ではないだろう
分離ではないだろう
恐怖ではないだろう
不安ではないだろう
愛でないものではないだろう
それは思考が考えられるものではないだろう
まさしく、それは
思考であるこの私が推定出来る想定範囲のものではない
考えられないもの
既知でなく、未知なるもの
私である思考が全く及ばないものが
それが
分離のない、二元性でない、意識である。

真の「私」。

真我は闇が去ったとき
そこに
始めからあるという

であるから
私に出来ることは
その闇に留まること
その闇を見つめること
その闇である思考が、思考である私であることに
もっと気づくこと

闇に留まろう

闇の中に光があるのだ
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