進化し、進歩し、開悟する者とは誰だろうか
悟る者とは誰か
実現するもの、到達する者、開悟する者、良くなるもの、究極を体験する者、真理となる者、神と合一する者とはだれか
また、その為に努力している者とは誰か、努力している私とは誰か
そしてその努力という行為をしていると思っている者は誰か、
自分がその目的のために色々と修行したり努力していわゆるその為の行為をしていると思っている私とは誰か
それらの「錯覚」の動機を持って努力している「瞑想という行為」をしている私とは誰か
実際にその努力を行為していると思っており、徐々に知覚が拡がり、自己感覚が消失し、
ステップを一段一段アップしている実感を持っている私とは誰か
それは私であろうか、
そしてその私とは私であろうか
良くなっていき
徐々に成長し
段々と進歩し
更に神に一段一段近づき
自我を失いつつある私とは果たして私なのであろうか
それとも
その良くなって進歩し、改良され、ステップを上がっている私とは私ではない者ではないだろうか
自分は行為していないことを知っているのが私であるなら、
自分が行為していると思っている私とは私ではない者である
その行為していると錯覚し、そのように信じている私が成長している私である、進化している私である
その進化し徐々に成長し、脱皮している私、自分が行為していると信じて段々と良くなっている私とは
はたして私であるのであろうか
その進化し、成長改善の道程を歩んでいると信じている私とは一体誰なのか
その進化している私とは、勿論自分が行為していると信じている私もどきである
そして行為していると信じているからには、その行為そのものが「個」を前提にしているので
その自分とは全体と分離していると思っている
ハッキリ言うならば自分は形姿を持っている、自分は個人であり、肉体やら何やらの身体を持っていると思っている者であり
それはその身体である質料の意識であるに過ぎないのではないか
その身体がどれだけ拡大し、又は小さくとも、又は如何に精妙であっても、又は粗雑であっても
その意識は全体から分離し、必ず見る者と見られる者の分離という「虚偽」であるものである
その私とは分離しており、全体ではなく、見る者と見られる者という虚偽そのものであり主体と客体という分離認識そのものである
それが、良くなろうとする私の、解脱しようとする私の、真我実現しようとする私の中身ではないか
それは良くないもの、解脱ではないもの、真我ではない私であり、私ではない私である
その徐々にステップアップしている私とは、虚偽の私、見る者と見られる者という嘘の次元そのものであり
第一想念のわたしという根本の主客分離の観念であり、概念であり、時間であり、空間でありマトリックスそのものである
そのマトリックスが成長し良くなろうとして真我実現を目指している私の正体である
だからこそ
それは全体から分離しており、個人や人格という私と言う記憶を生み出したのだ
成長している私は、私ではない、その私とは私を詐称している者である
進化し、真我への道程を確実に歩んでいる者は、私ではない、私を詐称している者である
それはマトリックス映像でありスクリーンに投影されている観念にしか過ぎないのであろう
この私とは私ではない
だからこそ、この観念の記憶とは
この私の中身とは肉体や他の身体を自分だと固く信じ込んでおり、この身体の知覚や感覚を自分の知覚や感覚と思い違えている
この頭脳にやってくる思考や感情を自分の思考や感情と思い込み
この肉体や精妙なる身体の行為を自分が行使し行為していると思い込み
出来事や世界や宇宙に私が関与していると思い込むのだ
その私ではない私の中身は時間であり、虚偽の空間であり、思考であるからこそ
信じたり、考えたり、創造したり、想像したり、感じたり、知覚したり、認識したり、体験したり、記憶したり、願ったり
欲望したり、行為していると思ったり、見る者と見られる者が別々にあると思ったり、対象を認識したり、
観察者は観察されるものではないと信じたり、
外部に対象として神があると思ったり、自分と神は別だと信じたり、自分は他人ではないと思ったり
出来事は映像であるのに、運命や出来事を外部に見て、自分は肉体や夢の中での身体であると思ったりするのだ
そしてその私ではない私が真我実現しようとしているのである、
実際は真我は実現しており、今此処に在ると言われているのに
滑稽なことにそれを求めているのだ、そして自分は進化し成長し理想に近づいていると思っているのだ
この私とは結果であるのに過ぎないのに・・・・。
それらは全て自分とは肉体を始めとして何かしらの身体であるという、錯覚から生じているのだ
それらの私の正体とは自分は身体であるという錯覚の観念ではないのか
だから知るのであり、認識するのであり、知覚するのであり、体験するのであり、感じるのであり、願うのである
それらの知ることや、信じることや、願うことは全てが主体と客体の分離という虚偽のマトリックスを前提としている
主体と客体という虚偽であるからこそ
瞑想したり、知ったり、認識したり、経験したり、感じたり、知覚したり、体験したり、蓄積したり、記憶したり、行為したり、
思考したり、願ったりするのである
真の私とは果たして
知ることがあるだろうか、認識することがあるだろうか、知覚する事があるだろうか、記憶することがあるだろうか
行為することがあるだろうか、願うことがあるだろうか、理解することがあるだろうか、考えることがあるだろうか
対象を持つことがあるだろうか、分離した自己と云う感覚を持ったりするだろうか、外部と内部に分割するだろうか
他人という自分以外の愛する対象を認識したりするだろうか、過去現在未来という時間を認識するだろうか
良くなることや〜に成りつつあると云うことや、究極の真理に到ることや、理想の実現や真我実現したり
解脱に到達したりしようということを考えたり、願ったり、思ったり、努力したりするであろうか
私は思考するであろうか、私は対象を認識したりするだろうか
その思考し、対象をもっている私
それらは全て私ではない
真の私とは何も思っておらず
何も思考しておらず、
何も行為しておらず、
何も願っておらず、
何も感じておらず、
何も記憶しておらず、
何も対象を持っておらず、
何も分離しておらず、
「見るものは見られるものである」であり、
今此処に既に「在る」ものであると教えられている